掌編「サインポール」武村賢親
新島さんの家の前に置かれている赤と青と白のくるくる回る看板の正式名称を知ったのは、内装施工会社の内定通知を受け取った日だった。うちの工業高校にだけ募集のかかる非公開求人で、毎日欠かさずに通った進路相談室の就活掲示板に募集チラシが張り出されるや否や、担任をつかまえて募集要項をもらい、誰よりも早く願書を提出した。夏が終わる前に就職活動を終わらせておきたかったから、目論見どおりに事が運んで内心は欣喜雀躍といった有様だ。きっと夏休み明けに就職が終わっているのはおれくらいだろう。
ざまぁみやがれってんだ。
顔を合わせるたびに小言を並べる父親の肩を突き飛ばすときの勢いで新島理容室の扉を押す。扉は開かず、かわりにかたい衝撃が肘まで跳ね返ってきた。理容室の扉は外開きだった。軽くまわりに目配せをして、誰も見ていないことがわかっても恥ずかしいことに変わりはなかった。一定の間隔をおいて軋んだ音を立てるフランス国旗を巻き付けたような床屋さんの看板だけがすぐ隣で回り続けている。
鈴を鳴らしながら店内に入る。相変わらず、バーバーチェアが二つと、新聞や雑誌がささった本棚が一つ、一度も座ったことのない待合用のソファがあるだけの、おれが小学生のころから何も変わらない風景が出迎えてくれた。なぜだか、飯を食べて寝に帰るだけの実家より、月一でスポーツ刈りにしてもらいにくるだけの新島理容室の方が落ち着ける。チェアと向かい合う鏡のわきに観葉植物の鉢が並べてあるせいか、店奥の生活空間からテレビの音が微かに聞こえてくるせいか、毛の生えそろう前から、おれはこのチェアに座ってボーとすることが好きだった。
おう、来たのかタカ坊。そろそろお前もヘアスタイルに気を配る年頃じゃねぇのか、と言って、奥から新島さんが顔を出す。灰色の無精髭を短く揃えた日焼け顔に、気前の良さそうな口元からすかすかの黄色い歯がのぞいている。問題だ、うちの前にあるくるくる回る看板の名前、なぁーんだ?とサンダルをつっかけながらエプロンに手を伸ばす。
新島さんはおれに会うと必ずなぞなぞだかクイズだかわからない問題を出す。これはおれがここに通いはじめたころからの伝統で、正解するとアメだったり仮面ライダーのカードだったり、新島さん曰く、いいモノ、をくれる。
あれに名前なんかあるんすか。当然だろう、世の中のも全部に名前があるんだよ。新種の虫とかは? バカ野郎、見つけたやつがすぐに名前つけるだろうが。
今日も刈り上げか、と問いかけるでもなく言い切ってチェアを回す新島さんの目の前に、俺はスマートフォンのメールアプリを展開した画面をつきつけた。新島さんはしばらく首を鳩みたいに前後させて画面をにらみつけていたが、とうとう諦めてくたくたになったシャツの襟に引っ掛けた老眼鏡を耳にかけた。
画面を見つめる新島さんの目がみるみる丸くなる。
「就職か!え?タカ坊が!は!このボンクラが?へぇ!社会人か!」
急に血色がよくなった頬周りを弛緩させて、新島さんはおれが一発でクイズの正解を答えたときと同じような、口の端にたくさんのしわを寄せ集めた、泣き顔のようにも見える笑みを浮かべた。甲に比べて妙に白っぽい手のひらをおれの頭に乗せて乱暴に髪をかき乱す。
どんな仕事だ、もう学校は行かなくていいのか、お父さんお母さんはよろこんだろう。矢継ぎ早の質問一つ一つに答えていたらきりがないので、今日のところは報告だけで、髪はまたきりにきます、と言いおいて、そそくさと逃げるように引き上げた。じつを言うと、だれよりも先に伝えたかったのが新島さんだったのである。
夕方、内定を知って上機嫌になった母親のハンバーグに舌鼓を打っていると、インターフォンが鳴って、タカ坊やぁい、というしゃがれた声が玄関から響いてきた。あらあら孝さん、どうしたの、と言って母親が対応に出た。
や、お母さんおめでとう、タカ坊が無事に仕事を決めたそうで、お祝いだ、これ、渡しておいてくださいな。
それだけ言って新島さんは帰っていった。食事中に席を立ってはいけないという家の窮屈な規則にあまんじてほうってしまったが、ちょっと不義理だったかなぁ、と反省しつつ、戻ってきた母親から紙袋を受け取った。しわだらけの見た目にしてはずしりと重たかった。
食後、自室に引っ込み、紙袋の中から綺麗な藤色をした風呂敷包みを取り出す。結びを解いてひろげてみると、中にはなぞなぞやクイズを集めた子ども向けの本が何冊も積み重なって収まっていた。就職祝いがなぞなぞの本かよ、と思いもしたが、一冊取り上げてめくってみると、目に飛び込んできたのは小学三年生の夏休みに出された問題だった。
Q:大昔からいままで、ずっとたっているものは?
A:時間
これは全然わからなくて、最終的にはギブアップして教えてもらった問題だ。
Q:ハムのなる木ってどんな木?
A:松
これは確か高校に入学して最初の問題だったな。このときは頭が冴えていて、一発正解してコンビニのシュークリームをもらったんだ。
めくるたびに蘇ってくる思い出は、問題のことばかりではなかった。この問題のときは先生に怒られてしょぼくれていた曇りの日で、この問題のときは受験勉強の願懸けで伸ばしていた髪をさっぱりさせるために赴いた寒い日だった。
もう一冊を手にとったとき、本の中から何かがこぼれ落ちた。それは金色の細長い棒で、ネクタイピンだった。端にストライプの飾り彫りがあしらわれた洒落た一品だった。
ピンの挟まっていたページを開くと、昼間に新島さんが出題したクイズがでかでかと載せられていた。
Q:理髪店の入り口でくるくる回っている青と赤と白の看板の名前は?
A:サインポール
サインポール、と口に出して読み上げた。途端に新島さんのしわだらけの笑顔が脳裏に浮かんでくる。いま、きっとおれも同じような顔をしているんだろうな、と思った。
内定式はずいぶん先だけど、明日、髪を切りに行こう、絶対暑いけど、ネクタイ締めて。
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