琳琅 第二号より、「ヴァン・ダ・イールー渓谷の民」武村賢親

 こうして儀式を終えた獲物は集落に持ち帰られ、初めて族長と相対したあの大きな住居で、集落の住人全員に分配される。

 彼らの集落は谷底の少し開けた場所に密集する灌木帯によって隠されるように存在していた。絡み合った蔓や枝葉によって黒い雨から守られているのか、集落周辺の地面や草は、渓谷内の雨曝しになった場所ほど黒く染まってはおらず、辛うじて農作物を育てることのできる環境にあった。といっても、育てられるのは湿気を好む豆類や木の根元に蔓延る苔類、沼で育つ根菜類の仲間くらいで、充分な栄養を摂取できているわけではない。そのため、戦士が命がけで狩って持ち帰ってきた野生のトリやイノシシの仲間などは彼らにとって貴重なタンパク源なのであった。

 その貴重さ故か、その日の収穫物を集落全体で分配する際に必ず発生するのが分け前に関するいざこざである。こっちの取り分が少ないだとか、そっちの方が多いのは不当だとか、言い争っている内容は、雰囲気的にそういうものだと思われる。狩りの儀式ではあんなにも調和した韻律を共有するのに、意見が対立するととことん野蛮になるのもこの部族の特徴だろうか。話し合いで解決しない場合は、小競り合いを起こした当人たちの一騎打ちによって取り分が決定されるのだ。この時ばかりは、囁くように会話をする彼らも声を荒らげてヤジを飛ばすので、私の得た彼らの言葉は、大抵分配の小競り合いの時に獲得したものだった。肯定の意はイリ、否定の意はイーヴァ、いまだ正確な会話は成立したことはないが、意思を伝えられるだけの単語は確保することが出来たと思う。

 彼らは普段から顔を晒す習慣がなく、屋外であっても屋内であっても、目の下から顎までが隠れる顔布を外そうとしない。そのため、彼らを区別しようと思えば、人相ではなく、一人ひとりの言動やちょっとした動作の違いで見分けるしかなかった。

 その点、ヌェラはこの集落の戦士の誰よりも小柄で、見た目も華奢な戦士だった。相対する相手はヌェラよりも頭二つ分ほど身丈があり、槍を握る手も大きく、筋骨隆々で屈強そうな佇まいをしている。一目見ただけではヌェラの勝機はまずなく、力で捻じ伏せられはしないだろうかと心配すらしえるほどだった。しかし、決闘が始まってしまうと、私の予測はいとも簡単に覆されることになる。小柄な戦士の動きはコンパクトで素早く、握る短剣の太刀筋はしつこいほど正確に人体の急所を狙っていた。細やかな動きに痺れを切らして力任せに槍を振り回した相手の懐に潜り込み、その首筋に刃をそっと宛がって押し倒すその身のこなしは、息をするのも忘れて見惚れるほどに無駄がなく、美しかった。

 勝利の末に得た分け前は私たちの血肉となり、残った骨も鋭く削られて鏃となる。ヌェラはとにかく無駄を嫌っているようであった。それはヌェラに限らず、集落の住人全てに言えることである。彼らは短刀で骨に張り付いた肉片まで残らずこそぎ落して口に運ぶ。肉が削ぎ落とされた骨も、大きさによって違う道具に再利用され、無駄にされることがない。彼らは限られた資源と環境に適応し、強かに生きているのであった。

 皮肉なことに、この集落に滞在している間に私の仮説の半分以上は既に立証できるだけの根拠を得てしまっていた。この渓谷には、と言っても集落周辺の一部ではあるが、れっきとした食物連鎖のある生態系が存在しており、それを利用して生活するひとの存在も確認することができた。彼らは独自の文化と言葉で我々とは違う歴史を生きてきたのかもしれないが、種族は紛れもなく、声帯を持ち二足歩行をするヒトである。家を建て、火を扱い、言葉によって意思疎通を図るひとの生活が、ここには確かに息づいていたのだ。

 雷の音が遠く聞こえ、雨音が一層強くなる。ここに来て初めての雨は土の匂いを大地から立ちのぼらせ、集落の様子を普段とは違うものに変えてしまった。彼らは黒い雨を忌むべきものとして嫌っており、雨が降ると皆それぞれの住居に引きこもってしまう。人体に何らかの悪影響があるのか、彼らが肌の露出を極限まで少なくした理由と何らかの関係があるのだろう。彼らの文化について、私はまだまだ知らなければならないことが多いようだ。

 腰布を身に着けて振り返ると、ヌェラは顔布と腰布以外の装束を一切身につけないまま、焚火の前に腰を下ろしていた。槍を短剣に持ち替えて、今日の分け前である黒いトカゲの胴体から鱗を剥がしにかかっている。普段、黒い装束によって隠されている戦士の素肌は昼間の月を思い起こさせるほど白く、背中まで伸びた髪はカラスの羽を想起させた。鱗と短剣との摩擦によって生じる火花が肌に残った幾つもの薄い傷跡を照らし、振り下ろされる短剣の衝撃がヌェラの髪と、玉のような小さな乳房を震わせる。

 私は咄嗟に装束の羽織を脱ぎ、視線を明後日の方向に逸らしながらそれを彼女に差し出した。ヌェラは一瞬訝しんだ様子で短剣を繰る手を止めたが、私の意図を察してくれたのか、羽織を受け取って袖を通し、視線を戻した私に隣へ座るよう促した。

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