琳琅 第三号より、「棚の間」武村賢親

「わたしが万引きをやめられなくなったのは、お母さんのせいなのよ」

 じっとりと湿った布団の上でまどろみながら、路子はぽつりと呟いた。

 傘を持たずに家を出た晩秋の朝。霧雨をただの湿気と侮った小学五年生の彼女は、お昼前に調子が悪くなり、保険室の先生の勧めで学校を早退することになった。その時分にはもう何度か男を連れ込んでいたらしい母親は、電話に出なかった母親を驚かそうと玄関の傘立てのうしろに靴を隠して寝室のクローゼットに潜んでいた路子の目の前で、連れ込んだ男と唇を重ね合わせたのだという。母であった女の痴態から目を逸らし続けた彼女が、情事の終わるまでの間凝視し続けていたものが、ベッド下に転がり落ちてきたコンドームのパッケージだった。

 いまでこそそれが避妊具であると知っているが、当時の彼女はそのパッケージの正体がなんなのか、ずっと気にかかっていたのである。母親の不貞を目にしていながら誰にも相談せず中学校にあがったある日、生理用品の買い足しで立ち寄ったドラッグストアで偶然にもあの日と同じパッケージに遭遇した。思わず駆け寄って手に取ってしまったが、どうやらこれはアダルトな商品であることが同じ棚に並んでいるラインナップで察することができた。このパッケージの正体を確かめたいが、自分が実際にレジまで持っていって購入するには抵抗がある。その水色のパッケージをどうしようか考えあぐねていると、別の棚で客が店員を呼ぶ声があった。店員がレジを外し、入り口の周辺からひとがいなくなる。彼女はとっさに踵を返し、パッケージを服の中に隠して店を出た。この日を境に、万引きという行為に異常な興奮と執着を覚えるようになったのだという。

「とったって意味なかったのにね。この身体じゃあ」

「そんなことはない」

「それじゃあつけずにするのはどうして?」

 脱力したまま動く気のなさそうな路子をそのままにして、上体を起こす。時間は正午に近づいていた。昨夜のアルコールのせいか、空腹は感じない。それでも水分はとっておこうと、キッチンの水切り籠に伏せたままになっているはずのグラスを思う。

「意味がなかったらこんなことにはなっていない」

「かなしい言い方ね」

 立ち上がって一歩踏み出すと、右の爪先に何かがあたった。見下ろすと昨夜飲み干した日本酒の瓶が横倒しになっている。掴み上げて注ぎ口にそっと顔を近づけると強烈な臭気が鼻をついた。昨日は少々やりすぎたな。瓶を捨てながら部屋を見回す。

 乱れた布団、空き缶だらけのテーブル、廊下から続く脱衣の痕跡。我ながら呆れるほどの無法空間を前につい、大きく息を吐き出す。

 間歇的に痛む両方のこめかみを揉む。両側から針金を貫通させて電流を流されているかのようだ。これはたらふくになるまで水分をとる必要があるな。

 しかし、考えるよりも先に足は浴室へと向いていた。汗によるべたつきがどうにも我慢ならないくらい気になる。久しぶりのことだったためか、瓶の注ぎ口の匂いがすり込まれたせいかはさだかではないが、とにかく早く身体を流したかった。

 頭から冷水を被って、混ざり合ったふたりぶんの汗を流す。水を得てべたべたからぬるぬるに変わった肌の表面を必死にこすり、すっきりしたついでにそのまま水を大量に飲んだ。降り注ぐ水はカルキくさくて、飲んだことをすこし後悔した。

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