連載「若し人のグルファ」43

「抱き着かれて、キスされた」

 丑尾は突然打ちあけた。きっと桑原の言っていた友達のちょっかいというやつだろう。

 振り払おうとしたが相手の力が強く、唇の端を噛み切ってやって、やっと逃げてきたのだと、淡々とした調子で話し続けた。

 俺はそうか、とか、それで、くらいの相槌を挟んで、丑尾の独白に耳を傾けた。

 自分の性癖を包み隠さず話し、フォローしてくれる友達もいる中で起きてしまった間違い。桑原の友達とやらは悪ふざけのつもりだったかもしれないが、襲われた側はこころに深い傷を負う。

「クワちゃんは、悪くねぇんだ。おれがほいほいついていっちまったのが悪いんだ」

 それを最後に、丑尾は黙り込んだ。換気扇の音ばかりがうるさい。

 ふと思い出して、片方の手のひらで水面をすくった。

「グルファ」

「は? なに?」

「アラビア語で、これだけの水の量を示す言葉なんだって」

 小首を傾げたまま、丑尾が俺の手をのぞきこむ。

「たぶん桑原がその友達に持っていた信用も、お前が自分の性別に感じている違和感も、この程度だ」

 丑尾は自分の手でも皿をつくり、俺と同じように水面をすくい上げた。

「でも、たったこれだけの量でも、重ねればバスタブ一杯分の量になるし、いっぱいの状態でさらに注げば、あふれ出ることもある」

 さっきの丑尾の状態は、きっとこれまで抱えてきた不満やストレスがあふれて出た結果だ。気にしていない素振りをしていても、無意識のうちにため込んでしまった片手のひらにのるだけの水が、長く体内で腐ってしまい、じわじわと丑尾の精神を蝕んでいたのだ。

「だから今度は、あふれちまう前に、俺に話せ。どうにかしてやる。お前はどうか知らねぇけど、俺は本気で、お前のことをわかってやりたいって思ってるから」

 あの日の衝突では受け止めきれなかった丑尾の本音を、いまならもうすこし受け止めてやれる気がする。それこそ、片方の手のひらにのるだけの量しか理解できないかもしれないけれど、丑尾が吐き出す度にすこしずつ積み重ねていけば、いつかはこいつの全部を受け止めてやれるはず。

 ふいに丑尾の腕が伸びてきて、湯と同じ温度になった手のひらが俺の心臓の上に触れた。丑尾は感触を確かめるかのように肌を撫でながら、ゆっくりとその手を下へずらしていく。なんの力みもないひどく緩慢な動きだったので、俺は防ぐ気も起こらず、丑尾の好きにさせておいた。

 はたして丑尾の手は俺の下腹部へ届いた。恥毛を指先でもてあそび、さらに下へと降りていく。やがてもう一方の手も伸びてきて、両手で優しく包むようにして揉みながら、俺の形をたしかめた。
「……かたくならないね」

 すぐ目の前にある左巻きの旋毛が、そんなことを言った。

「当たり前だ。弟に欲情したら変態だろう」

 水面がかすかに波打った。いや、もともと俺たちの動きによってゆれてはいた。しかしその波に違うものが加わった感じがした。それは微笑みとも、落胆ともちがう。両方の感情が紙一重で交わるかどうかの、閾のような波紋だった。

「生意気」

 丑尾は指で俺の陰嚢を弾いた。

「ちょっ、痛っ、おまっ」

 腰を浮かせた俺を見て、やっと丑尾は笑顔を見せた。

 なんの根拠もなかったが、もう大丈夫だと思った。

 充分に身体を温めてから脱衣所へ出ると、身体から立ち昇る湯気が見て取れるほど冷房が効き渡っていた。自棄になって設定温度を下げ過ぎていたことを思い出す。

 洗面台の鏡を見ると、俺の隣で同じように湯気を立ち昇らせている丑尾が、同じように鏡を見ていた。

 まったく身体のつくりが違う兄弟。

 俺たちはまるで違う。身体にしろ、中身にしろ。

 恭介、歯ぁ欠けたんじゃねぇの? バカ、誰のせいだ、お前こそ腹の中大丈夫か。知らねぇ、妊娠してたら責任持てよ。しねぇよバカ、それより薄給消し飛ぶつもりでいろよ。ちょっ、俺が治療費だすのか? 当たり前だろう。

 ひとつしか予備のないバスタオルを順番に使う。

「家族ともシェアしたことないのに」

 丑尾のこぼした独り言が、なぜだか心臓を弾ませた。

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