琳琅 第三号より、「棚の間」武村賢親
3
「怖くなった?」
私の腕にぴたりと身体を寄せて、路子がささやく。二人で買い物をしに出掛けるなどいつ以来だろうか。ずいぶん若かったころのような気もするが、当時も路子はこんなに密着していただろうか。同じものを使っているはずなのに、路子の頭からはシャンプーのやわらかい芳香が立ち昇ってくる。
「怖がって当然だろう。どっちに転ぼうと、犯罪に変わりないんだから」
「大丈夫よ、きっと」
どこからそんな自信が湧いてくるんだ。聞き返せぬまま、出入り口の自動ドアをくぐる。ちょうど前を通りかかった店員が、いらっしゃいませぇ、と控えめな発声で掛けてくる声にさえ胸の動悸が速まるというのに、路子は当たり前の顔をしてメイン通路を進もうとする。
まっすぐ行くと返って目立つからと、わざと必要のない絹豆腐を物色したり、ふりかけの何十種類と並べられた棚を長い時間眺めたりしながら、すこしずつ缶詰のラックのある通路へと近づいて行く。
「ねぇ。この後ちょっとお酒飲まない?」
やっと視界のはしに目的のラックを捉えたというところで、路子が私の腕を引いた。
お酒? 冗談はよしてくれ。どうしてこんな状況でそんなことを考えていられるんだ。缶詰のラックは目と鼻の先じゃないか。さっさと戻して、早く帰ろう。
そう言おうとした矢先、台車を押した店員が私たちのうしろを通過した。二十代くらいと若い見た目の店員はコーンの缶詰が大量に入れられたラックの前で止まり、別の缶詰の補充をはじめる。どうしてこのタイミングで、と思った私の心内を見透かしてか。路子がもう一度、なにも言わずに私の腕を引いた。
酒類コーナーに立ち入ったのはどれくらいぶりか。昔は近所のリカーショップに通って安い缶チューハイを箱買いしていたが、最近はまるで飲まなくなっていた。
そういえば、路子も酒が好きだったはずだ。どちらかと言えば私が路子の晩酌につき合うことの方が多くて、日本酒の燗などはいつも私がつけていた。コンビニで買う六ピースのカットチーズをあてにワインを傾けたり、タマゴとキャベツを塩コショウで炒めただけの簡単な一品と缶ビールだけで二時間過ごしたりしたこともあった。
お互いに、いつからこんなに飲まなくなったのだろう。
子どもができづらい身体とわかってからは夜の方も減ったし、たまにある旅行も温泉地などへ日帰りで行くことが増えた。喧嘩こそしないが、昔ほど談笑もしていない。
「缶チューハイが好きだったわよね」
「あぁ。でもこれは高いよ。八パーセントだ」
「いいじゃない。十六度の日本酒とかじゃないんだから。明日にも響かないわ」
レジ横からわざわざカゴを持ってきて、次々とチューハイの缶を入れていく。レモンサワー、カシスオレンジ、季節限定の秋梨サワー、缶ビールも一本ずつ。久しぶりの酒盛りに期待しているのか、心なしかワクワクしている自分もいる。アルコールが入ればもうすこし打ち解けて路子と話ができるかもしれない。そんな思いが一瞬だけ浮かんで、すぐに弾けた。
打ち解けてとはなんだ。いい大人が、酒の力を借りないと妻と話もできないというのか。
ブラックニッカの瓶に伸ばされようとしていた路子の手首をとって、サブ通路に引き返す。ちょっとと怪訝な声を出す路子の耳に、その前にやるべきことがあるだろうと、なるべく小さな声で囁いて、缶詰ラックのある棚へと戻る。
幸い店員の姿はなく、商品を返すには絶好のタイミングだった。
視線で路子に合図を送る。しかし、路子は渋る様子を見せて動こうとしない。トートバッグに手を掛けはするのだが、その中にあるはずの缶詰まで手を伸ばそうとしないのだ。
「なにしてるんだ。だれもいないんだからいまのうちに返――」
がしゃん! という耳障りな音が響いた。路子の持っていたカゴが傾いて、チューハイの缶がカゴから転がり落ちたのだ。路子がすぐさましゃがみ込んで缶をかごに戻す。こんなときに、なんで目立つようなことを、と思ったのも束の間、路子は缶を拾う動作と同じペースでバッグから缶詰を取り出し、買い物かごへと移動させた。その動きにはまったく不自然な部分が見当たらず、まるで缶チューハイと一緒に落ちた商品をカゴに戻しただけですと言わんばかりの当然さが滲み出ていた。
「いや、なんで戻さないんだ。いまがチャンスだろう」
「戻すんじゃなくてちゃんと買うならいいでしょう。これでおつまみつくろうと思ったの」
今日とってきてしまったものなのだから、今日中に代金を払えば万引きではなくなる。そんな理屈はおかしいと思いながらも、店の売り上げデータ上ではちゃんと購入されたことになるのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。私はスーパーマーケットで働いたことはないし、バックヤードがどうなっているかなんてテレビの番組でしか目にしたことがない。もしかしたら路子の方がその点ずっと詳しくて、これは路子の経験から得られた抜け道なのではないか、とすら考えてしまう。
それでも、私は反対した。家の冷凍庫に残してきたサバの切り身脳裏を掠めたからだ。その論理が通用するならサバも一緒に持ってくればよかったじゃないか。そういうと路子は黙り込み、放り投げるようにしてコーンの缶詰をラックに戻した。かしゃ、かしゃんと、金属同士が衝突する音が耳に障る。
結局酒しか入っていないカゴをレジに通して、私たちは店をあとにした。路子は不機嫌そうだったが、私はなんとか目的を成し遂げた安心感から少々開放的な気分になり、通りにひとがいないことを確認して缶チューハイの封を切った。
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