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スコーク77(6)Mの燔祭


「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護、仏様、りゅう様、有り難きや有り難き、阿耨多羅三藐三菩提」

 御堂の方角に向かって坐し、手指の先を合わせる。目をつぶって一息に早口で暗誦する。手をついてニ礼。姿勢を直して、また手指を合わせる。畑で人参を掘っていても、家で炊事をしていても、寝込んでいても、遠出をしていても、毎日三度、御堂に祈りを捧げる。朝6時、正午、夜の6時。土の上で、土間の真ん中で、蒲団の上で、道端で、いつも懐中時計と睨めっこして、ぴたりと針が揃うとお祈りの時間だ。集落中から祈りの言葉が飛び出して、四辺の山に木霊する。老若男女、さまざまな声がりゅう様へと届く。忘れてしまうと何か良くないことが起きそうで、幼心に怖かった。祈りの時間の前数分間、僕は身を岩のように硬くして、そして祈り終わると、いつも心が軽くなった。

 僕の故郷は山に囲まれていた。
 畑が波打ちながら延々と連続している。ぽつ、ぽつ、と家の形がある。遥か向こうに波打つ稜線が見える。本物の波のように、漣、大波、凪、色んな波の形の、歪な稜線が集落を取り囲んでいる。小川が一筋、流れている。冬が長い。たくさんの雪が降る。雪は積み重なり、大人の身丈を優に越えて、世界は真白に埋もれる。僕は、人参農家の末っ子。兄6人、姉3人。母が42の時に生まれた。

「こーひーさんかーぜーごちゅーしーにょーぜーごーはしー」
 残雪溶けきらぬ4月4日、入学式、正午。
 僕は、初めて教室でお祈りを捧げた。御堂は丁度教壇の方角だという。僕たちは教壇に向かって坐し、目をつぶって手指を合わせた。木造校舎の床は冷たく、つぎはぎだらけで、身じろぐだけでギシギシとたわんだ。隙間風が冬の匂いを含んで、僕の低い鼻をつんとさせる。子供は僕一人。あとは女先生、校長先生、母、長兄の嫂のトシさん。僕に同級生はいなかった。入学生が一人というのは創立以来だと、先程校長先生がお話しされていた。
「仏様、りゅう様、」
 ギシ、ギシ。
「有り難きや有り難き」
 ギシ、ギシ、ギシ。ずっと誰かが動いてる。気になって、仕方ない。
「あぶくだら」
 薄目を開けた。正面にはぼんやりと教卓が立っている。音は、右の方に進んでいる。
「さんみゃーぼーだー」
 両開きの木扉の前に、女の子がいた。
 赤いセーターの女の子。かぐや姫のような長い髪。背の高い、女の子。
 二礼、手指。
 目をしっかりと開けた時には、もうその女の子はいなかった。その赤い姿を思わず探した。ぐるりと教室を右から後ろ。左から後ろ。どこにも見当たらない。
「大きな声で、よく暗誦できていますね」
 校長先生が大きな声で僕をそう褒めた。左から右へぐるりと目を向けると、立ち上がった栗色のスーツが僕を抱え込んで、机のないまっさらな床に僕を立たせていた。母を振り返ると、嬉しそうに頬を緩めている。僕は、褒められるのも、母のそんな朗らかな顔を見るのもまるで初めてだった。母は厳格で笑ってるところを見たことがなかった。父も寡黙で笑わない。僕は末っ子で体も弱くて、頭もきっとよくないし、何せ、吃る。僕が大きな声でお祈りの言葉を言っていたことも、覚えていない。
 でも、良かった。褒められたのだ。
「君は明日から、この学校の皆さんと一緒にお勉強をします。たった一人の一年生で心細いかもしれませんが、先程のように大きな声で、堂々と、元気よく学び、りゅう様のご加護のもと、健やかに成長してゆくことを期待しています。近頃は男の子供が少し足りませんから、君はより頼りにされてゆくことでしょう。兄上たちのようにいずれ体も大きくなります。頑張ってくださいね」
 僕は、全く別のことを考えていた。
 あの女の子は、お祈りをしていなかった。

 帰り道、畦道を母とトシさんと、葬列のように縦一列で歩きながら、どうか悪いことが起きませんように、と願った。
 お祈り中に目を開けてしまったことが、だんだんと怖くなってしまったのだ。女の子がお祈りをしてなかったことも、なんだか怖かった。でも、母やトシさんには決して言えない。目を開けただなんて言ったら、女の子がいた、なんて言ったら、それで悪いことが起きたら、絶対に僕のせいだ。今日のことは、絶対にお口にチャックだ。僕は、秘密を持ってしまった。僕は、悪い子供になったと思って、悲しくなった。
 一面の段々畑は眠り土が平らく均されていて、出がらしの焙じ茶のような色をあらわに、のんびりと陽の光を浴びていた。もう少ししたら、つくしが顔を出すだろうか。空は穢れを知らない純粋な青だった。冬はもう、終わったのだと言っている。
 僕は、トボトボと、初めましての道を、母の後ろをついて歩く。
 母の晴れ着は、なんだか少し小さいような気がした。お尻の辺りが、今にも破けそうだ。僕は大きなお尻に置いてかれないよう、凸凹の畦道を小さな歩幅で下ってゆく。僕の家は、小学校から随分と遠かった。段々畑を下り切って、谷の集落を抜けて、また、段々畑を登る。ひ弱な僕は、ひどくくたびれた。今でも忘れない、小学校から帰った僕は午睡をして、夕方に長兄に叩き起こされた。起きた時にはお祈りの声が集落に響き渡り始めて、僕は慌てて指を合わせた。僕の家は段々畑の上にあるから、集落の声がたくさん聞こえるのだ。がむしゃらに声を張り上げて、祈りの言葉を唱えた。あぶくだらさんみゃーぼーだー。頭の中に、女の子の赤い姿がぼんやりと思い起こされた。
 あの子は、誰だろう?

 翌日、新学期が始まった。年近い二人の兄姉に引っ張られて、遠く果てしなく迷路のようなジグザグの通学路を、半分走りながら辿る。足がくたくたで、泣きたくなった。校庭で、校長先生のお言葉を拝聴しなきゃならなかったけど、僕は座り込んでしまって、叱られた。
 全校生徒、37人。
 そのうち、1年生から3年生は13人。僕と2つ年上のけん兄以外、みんな女の子だった。僕の家は男が多いから、それだけで褒められた。なんだか少し、家のことが誇らしくなった。僕は男だ!男の子だ!
 あの赤いセーターのかぐや姫は、学校にはいなかった。そもそも、女子はみんなおかっぱだった。長い髪の子などいなかった。誰も赤いセーターを着ていない。
 校庭の隅には、残雪がうずたかく盛られていた。
 あの子はかぐや姫だから、もしかして、あの中に、いたりして。

「今夜はよし兄の番だね」
 4月29日。天皇誕生日。家の門前に日の丸の国旗が掲げられていた。夜のお祈りの後、家族揃って夕餉をいただく。僕より3つ向こう、上座に近い紺の座布団に坐って大盛りの麦飯を頬張っているのが今晩の主役、よし兄だ。3番目の兄で、今年で18になる。他県の工業高校を主席で卒業して、この春から東京の大手企業に勤めている。エンジニア、というらしい。今日の月祭りのために帰ってきた。僕は、よし兄に馴染みがない。僕には、知らない人だ。
「よしみ、いくらあなたが東京にいるからといって、このことは外部に話してはなりませんよ。あなたは優秀なのに、どうも軽率で、いけません。言葉にしてしまえば、命を失いますよ」
 齢47の母が大きな腹をさすりながら、大飯食らいの三男に論告する。もうすぐ僕は末っ子ではなくなる。妹がいいな、と思う。
「まさか。話しませんよ、そんなの。話したくったって話せやしない。ねえ、まさ兄?」
 よし兄は、長兄に相槌を求めたが、まさ兄は無視して、黙々と鹿汁を啜っている。月祭りの当番の家の晩餐は鹿汁と定められている。僕はこの鹿汁がどうにも苦手だった。肉というものが、なんだか気持ち悪い。これが生きていたと思うと、たまらないのだ。よくキジ汁が夕餉に出されるけど、本当にいやだ。いつもがっかりして、食べる。
 にしても、どうして「話せやしない」んだろう?
 僕は不思議に思って、一番歳近いけん兄の方を見遣った。けん兄は鹿汁に夢中だった。まるで、話を聞いてない。ぐちゃ、ぐちゃ、と咀嚼音を鳴らして鹿肉を食いちぎる。けん兄は、僕の反面教師だ。品に欠けてる、と子供ながらに思う。汚らしい。僕はああはなりたくなかった。「けん、もう少し静かに食べなさい」「けん、汁をこぼしてますよ」姉たちがけん兄を次々に嗜める。優しくする。けん兄は、姉たちのお気に入りだった。顔が、可愛らしいのだ。姉たちは、僕には何も言わない。僕は、醜い。
 僕はおちょぼ口で、鹿の肉を齧る。残してはいけない。残したらわざわいが起こるんだ。ふと、今朝の血抜きの光景を想起する。ゾッとする。モゾモゾと、食べる。あの鹿の味。どうしたって、血の味がする。
 今日は月祭り。
 満月の夜に執り行われる祭事だ。御堂に5人の男が遣わされる。集落の15歳以上の未婚男子が持ち回りで担当する。月祭りのことを他人に話すと、死んでしまうらしい。一年前、集落の若人が畑でひっくり返って死んでいた。心臓麻痺だった。隣県に出稼ぎをしていて、帰ってきた次の日に死んだらしい。「きっと、話しちゃったんだよ」誰もがそう口ぐちに噂をした。その家はその後、風のない日に燃えた。今も、炭になった大黒柱だけが山裾に残っている。墓標のように、まっすぐと立っている。
「よしみは、今晩の本業をしかと務めるように」
 上座に座る父が、額の皺をギュッと詰まらせ、貪りついていた鹿肉の骨を空皿に放り投げた。音もしない。もはや山積みの鹿の骨。父が、鹿汁と麦飯を食べ終えようとしていた。父よりも先に食べ終わるのが、この家の規律だった。
 僕は、慌てた。急いだ。鹿肉にかぶりつく。
「御意」
 よし兄は気取ったふうにそう応えて、おもむろに鹿汁に残りの麦飯を掻き入れた。「卵ある?」
 たくさん入れなさい。
 身重の母が、よし兄の手元に卵を3つも置いた。「まだ、ありますからね」
 よし兄はそれを全部鹿汁の中に割り入れて、かき混ぜもせず、ごくごく、と、飲んだ。
 月祭りって大変なんだ、って思った。
 もし、このよし兄が月祭りのことを東京でうっかりと喋ってしまったら、この家もあんなふうに燃えてしまうのだろうか。
 僕も卵、と、言ったら、母にこっぴどく叱られた。卵は15才まで食べてはいけないことを、僕はその時初めて知った。

 そろそろ、りゅう様のことを、僕の知り得る限り、伝えたい。

 祈りの言葉にもあるように、仏様は、仏様。りゅう様も、りゅう様だった。
 りゅう様は、この集落の神様で、女の神様。そのお姿を決して誰にも見せない、集落の生き神様。いつも御堂におわしになる。りゅう様の生んだ初めての女子は若姫様と呼ばれ、次のりゅう様になる。お生まれになった時と、りゅう様になる時。その時だけ、僕たちはりゅう様のお姿を拝むことができるらしい。繭のように金襴の衣に包まれたりゅう様が集落を訪れてくださり、その年は必ず平穏で、豊作になるそうだ。前回のおとなえの時は父が泥酔して、家の端にある溜池に落ちたそうだ。11月だったらしい。一昔前のことだという。初雪が降ったらしい。あの時、父が溜池で溺れて、凍えて死んでいたら、僕は生まれていなかった。
 数ヶ月後に生まれた、僕の妹も。

 小学3年生の夏は、ひどく暑かった。
「この人参を収穫し終えた頃には、お出ましになられるわね」
 長兄の嫂、トシさんは生まれたての次男坊をおぶって、畑に生えた雑草をむしっている。僕はトシさんの仕事を手伝って、人参から栄養を食らう天敵をがむしゃらにむしっていた。
「ちゃんと根本から抜かないと、いけませんよ」
 トシさんはぐずる赤子を揺すりながら、笑っている。僕とトシさんの股を、ちょっと大きくなったお転婆な妹が、はしゃいで潜る。
「夏休みの宿題は、済ませたのですか?」
「や、ややあ、やってるよ!ちゃ、ちゃんと!」
 僕の吃音はどんどん、酷くなる。僕は、ひどく惨めだった。躰も、兄たちのように大きくもならない。風邪ばかり引く。勉強も捗らない。校長先生も、あれから一度も僕を褒めない。
「お兄ちゃん、ちんちん!」
「ああ、もう、邪魔!」
 弟も妹もいらない、と思った。ちんちんを触られると、くすぐったい。嫌な感じがする。
「ちゃんと済ませてくださらないと、今年は、必ず豊作なのですから」
 新しいりゅう様が、10月23日にお出ましになることが決まっていた。
「宿題も、草むしりも、きちんとなさってくださいましね」
 トシは、顔が土まみれだ。
「おとなえのギ、って、どんな感じなの?」
 僕には、初めてのことだった。
「新しいりゅう様が、りゅう様になったら、元々のりゅう様は、」
 どうなるの?と言う前に、トシは遮った。
「私たちの中へ来てくださるのです」
 天上からは真夏の太陽が燦々と、僕らを照らしている。
「私たちの血肉となられるのですよ」
 チニク。
 よく、分からない。鹿のようなものだろうか。
 遠くから、下の方から、おおい、おおい、と、知った声が聞こえてきた。そうだ。忘れてた。
 今日は、満月。月祭りの日だ。
 当番のよし兄が、大きな荷物を片手に、空いた左手を、僕たちに向かって振っていた。一年半ぶりだ。
「よし兄!」
 僕は妹の体をヨイショ、とかついで、段々畑を駆け降りる。新しい妹を紹介したかったし、何より、よし兄は必ずいつも、東京の美味しいお菓子を買ってきてくれる。
 今日はなんだろう?なんていう名前のお菓子だろう?
 甘いおやつの楽しみは、僕の疲れた足取りを軽やかにした。

 その夜、寡黙な父が大層に荒れた。嵐だ。

「酒が、足らん!」
 空き瓶がバシャン、と割れる音は、しんと静まり返った午後7時の集落に、わんわんと響いた。
「酒を、持って来い!」
 トシさんさんが慌てて立ち上がって、土間の方に姿を消す。瓶の破片が畳に散らばって、まるで満天の星のように煌めいていた。
 月祭りの日は、お酒を飲んではならない。
 僕たちは、ゾッとしていた。僕たちの今夜の夜空は、満月じゃない。新月の、真っ暗闇だ。おまけに父の面前には、すっかり冷めてしまった鹿汁が箸をつけずにそのままになっている。どうしてこうなってしまったのかというと、よし兄が、離縁したいと父に申し出たからだ。
「お父様。ひとまず鹿汁をお召し上がりになってはいただけませんか?」
 一番上の姉、嫁ぎ先から出向いてきていたきよ姉は、鹿汁の心配を口にした。食べなければ、わざわいがもたらされるのだ。でももう、父は酔っ払っている。わざわいが、起きてしまう。
「うるさい!」
 父は言われた鹿汁を食卓から払いのけた。母の割烹着をびしゃりと汚す。
「くそ、酒はまだか!」
「お父さんは、この家がわざわいに見舞われても良いのですか!」 
 声を荒げたのは母ではなく、事の発端のよし兄だった。
「そもそもそんな泥酔でいては、ろくに話もできやしない」
「生意気な口を、」
 今度は飯茶碗が飛んだ。よし兄の頭上を通り過ぎて、漆喰の壁面にぶちまけられる。紅葉柄の藍色の飯茶碗はゴロゴロとコマのように回った。亜麻色の壁色に、麦飯が同化していた。

 僕は、ただ、怖かった。暴力も怖いし、わざわいが何よりも怖かった。
 よし兄が、この家と離縁すると言う。
 愛する人と結婚して、東京で一生暮らすのだと言う。それも禁じられたことなのだ。
 僕たちは集落の人と結婚すると決められている。僕には今、4人の花嫁候補がいる。

 トシさんが戻ってきた。
「もう、これだけしかありませんが……」
 酒瓶に半分も入っていない液体が、チャプチャプと鳴る。焼酎だった。よこせ、父はトシさんの手から酒瓶を奪い取って、ラッパ飲みした。父の体が左右に揺れていた。
「どのみち、この家はもうダメだ」
 よし兄は立ち上がった。母に、すみません、と頭を下げる。「東京へ戻ります」
「よしみ!」
 あなた、アイは、決して持ってはならないのです!
 母の悲鳴は鳥の断末魔のようにかん高く、しゃがれて響いた。アイ、って、なんだろう?思うよりも早く、居間を出て行ったよし兄は、どしどしと廊下を大きく鳴らして、きっと、玄関に向かっている。いなくなってしまうのだ。
 待って。
「も、もも、もうすぐ、は、」
 8時だよ!
 鳩時計は7時半を過ぎていた。御堂までは大人の足で歩いたって15分はかかる。これでよし兄まで集落の掟を破ったら、どれだけのわざわいが起きるか。僕は、よし兄を追いかけた。よし兄!よし兄!待って!
 革靴を履き終えた兄は、振り返った。
「追いかけてくるのはお前だけかー」
 のん気な、声。残念そうな、呆れたような顔。まるで、釣れた魚がイワナだった時の人の顔。
「おいで」
 よし兄の腕が、僕に伸びる。生成色のワイシャツは、糊が効いていた。居間の方から悲鳴が聞こえる。きっと父が、酔い潰れてひっくり返ったのだろう。

「お父さんにはああ言ったけどね」
 よし兄の大きな背中を、僕は必死に追いかける。家を飛び出したよし兄は、御堂には向かわなかった。北へまっすぐ、すくりと伸びた集落唯一の公道を歩いてゆく。僕たちの家は北にあるから、程なくして集落を抜け、周りにはなにもなくなった。山道を、僕たちは早足で進む。暗晦には雨の匂いが充満していた。東を見上げても、満月は分厚い雲の向こう側。うすらぼんやりとも見えない。闇夜だった。
「本当は東京じゃなく、アメリカで暮らそうと思うんだ」
「ど、どど、どうして。アメリカ?」
 教科書の世界地図を想起した。アメリカは大きな国。世界で一番の国。英語の国。遠い国。
「ほら、お父さんは結婚を認めなかったろう?」
 よし兄は手ぶらの両腕を頭の後ろに回して、放浪記の主人公気取りで歩いている。
「東京の会社も、親に認められない結婚をする社員なんて要らないんだ。愛する人のご両親も、きっと許してくれないだろう?だから、日本ではもう生きられない。俺たちは、自由の国に逃げるんだよ」
 東京に戻りしな、国際空港からロサンゼルスへ飛ぶ。
 そう言って山道をずんずんと進むよし兄は、ヨットで太平洋を横断した人みたいに勇敢でかっこよかった。国際空港ってなんだろう?どこにあるんだろう?でも、僕たちにはきっとわざわいが降りかかる。よし兄の乗った飛行機も、落ちてしまうかもしれない。僕はそんなよし兄についていって、どうするつもりだろう?もしかして僕も、アメリカに行くんだろうか?
 はた、と気づいて、よし兄を呼び止めた。
「ぼ、ぼぼぼ、ぼくぁ、」
 アメリカに行くの?どうして、僕を連れ出したの?
「あの家にいたって、ろくなことにならないさ」
 逃亡だよ。
 兄はそう言った。
 僕は、アメリカどころか、集落の外さえ知らない。ここがどこなのかも、分からない。
 急に怖くなった。立ち尽くす。外の世界を知るよし兄は、ずんずんと歩いてゆく。外の世界へ。生成色の背中は、すぐに見えなくなった。
 暗い山の中に、僕、一人。
 猪に食べられてしまうかもしれない。熊かもしれない。足を踏み外して崖から落ちてしまうかもしれない。車が走ってきて、撥ねられてしまうかもしれない。外人に殺されるかも。ああ、雨が、降ってきた。急にザアザアと降ってきた。髪が、顔が、シャツが、短パンがぐしょぐしょになって、汗みどろの僕は洗われて、草履は泥まみれ。来た道から、雨水がずんずんと流れ落ちてくる。僕は雨水に流されて、やっぱり崖から落ちちゃうんだ。お化けだってたくさん出てくるに決まってる。死体は動物に食べられる。涙が勝手に溢れ出た。雨なのか、涙なのか、さっぱり分からない。
「こ、ここ、こ、今此三界皆是我有ご、ご其中衆生悉是吾子しし、し、而今此処、た、たたたた、多諸患難ゆ、唯我一人、能為救くく、護」
 道端に坐り、手指を合わせて、僕は祈り始めた。何度も繰り返す。「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護」。唱えながら、りゅう様に懸命に謝る。ごめんなさい。ごめんなさい。父が酒を飲みました。鹿汁を食べませんでした。お母さんを汚しました。兄が、愛する人とアメリカへ逃げようとしています。僕は入学式の日、お祈りの途中で目を開けました。みんな、ごめんなさい。お許しください。どうかわざわいをもたらさないで下さい。りゅう様。りゅう様。りゅう様!りゅう、りゅう、りゅうりゅうりゅう、り。
「莫迦」
 生成色の右腕が、僕を攫う。
「祈ったってしゃあないだろう」
 よし兄は僕を抱き上げて、走り出した。ぬかるんだ未舗装の山道をバシャバシャと泥を撥ねながら、急カーブを曲がり、森の中へ彷徨いこむ。大粒の雨が僕の背中を引っぱたく。肌寒かった。よし兄の温もりが、何より有り難かった。夜がこんなにも怖いとは思わなかった。

「こうまで降られちゃ、しゃあないよなあ」
 土砂降りの雨を見上げながら、よし兄はぼやいている。あれから、随分と時間が経ったと思う。雨はまるで止む気配がなかった。
 僕はよし兄に導かれて、洞窟のようなところに潜り込んでいた。祠のようにも思える。奥が深く、闇も真深く、中がどうなっているのか、まるで分からない。僕の背丈ぐらいの高さしかない。ひどく窮屈だった。ぽつん、ぽつんと、雨垂れが落ちてくる。大粒、小粒、まるでオルゴールのように音を奏でて水溜まりを弾く。よし兄はその入り口で大男然とあぐらをかいている。雨水がザアザアと山裾へ落ちていくのを趣深しと眺めている。雨飛沫をものともしない。
 僕たちは手ぶらで、躰を拭くすべはなかった。焚き火が恋しかった。小枝を集めて新聞紙に火を焚べて、ごうごうと燃え上がる炎のそばで、躰を温めたかった。濡れた服を乾かしたかった。温かいお茶が飲みたかった。洞窟は、濡れた躰に厳格だった。真夏とは思えないほど、ひやりとしていた。
「まあ、どのみち、汽車は明日しか出ないんだから、いいか」
 のんびりしよう。ゴロンと仰向けに寝そべって、目をつぶった。
「き、ききき、汽車、って、あの?」
 テレビで見たことがある。人がぎゅうぎゅう詰めに乗せられて、駅員さんが溢れた人を押し込んでいた。
「もうすぐ、すごい汽車が現れるんだぜ。東京から大阪まで、時速200キロメートル毎時で走るんだ。この辺のシュッシュポッポなんて、そのうちなくなるよ」
 意味が、分からなかった。僕は汽車を見たことがない。ポカンとする僕を見上げて、僕の濡れた膝頭を、ポンポン、とする。
「明日は、汽車に乗るよ」
「あ。ああ、あ、あるの?汽車」
「あるよ」
 どうやって俺が東京からここまで来てると思ってるんだよ。よし兄の声は笑っていた。
「近くにあるの?ぎゅうぎゅう詰め?」
 僕が尋ねると、兄はそれには何も答えなかった。ぷい、と目を背けて、芋虫のように躰をよじり、また、洞窟の外を見詰める。止まないな、雨。そう言ったきり、呼吸に合わせて体を上下させるだけだった。

 秘密の話でもしよう。

 しばらくして、よし兄は唐突にそう言って、元気よく起き上がった。
「えっ。い、いや、だ、だだ駄目だよ!」
 僕はよし兄の足に縋り付く。秘密を話したらわざわいが降りかかる!そう思ったけど、よく考えたら、僕たちにはもうわざわいが降りかかることが決まっていた。だから、話しても構わないのだった。
 そうと決まれば、じゃあ、俺から、と、よし兄は秘密の話を始めた。暗がりにうっすらと浮かぶその口許は、少し緩んでいた。
「東京は、汚い街なんだよ」
 こないだ、人口が1000万人を超えました、なんて、ニュースになっていたけどね。
「川も汚い。臭い。空だって曇ってる。空気が汚い。まるで、ハラワタが侵されていくようだよ。あんなところにいたら、みんな病んでしまう。ここに来るとね、一瞬は、ほっとするんだ。土の匂い、風の匂い、なんと言っても、夜空に星がある。太陽が、燦々としてる。なのにあの人たちは、病んでいるんだ。人の心を持たない。だから俺はもう、帰らない」
 よし兄の声は、小さくて、雨に負けそうだった。
「次はつかさの番だよ」
 兄に促されて、僕は入学式の日の出来事を初めて人に話した。お祈りの途中で目を開けたこと。その時に見た、赤いセーターの女の子。
「その女の子、少し背丈の大きな、髪の長い、年上の女の子じゃなかった?」
 その通りだった。なんで、分かるの?
「その子は若姫様だよ」
 唖然とした。そんなはずは、ない!
「わ、わ若姫様は、み、御堂におわしてて、がが、学校になんか、」
「髪を伸ばしていいのはりゅう様と若姫様だけだよ」
 知らなかった?
 知らなかった。僕は、あの日のことを回想する。女の子は、お祈りをしてなかった。そっか。祈る必要がなかったんだ。
 ついでに言うとね。よし兄は、もう一つの秘密を打ち明ける。
「若姫様は赤いお召し物を、りゅう様は紫のお召し物を身につけるんだ」
 次はよし兄の番だった。
「俺は、高校の時からお祈りなんてしてないよ」
 その告白は静かに洞窟を喰んだ。
「だって授業中に、俺だけ床に座ってお祈りなんて始めたら、気違いだろ?」
 あのお祈りは、あの集落だけの信仰なんだから。
 僕はそれを初めて知った。
「そんなことしてたら気味悪がられて友達だってできやしないし、変な奴だ、っていじめられる。先生にだって怒られる。だから俺は、とっくに禁を冒してるんだ」
 つまり、掟を破ってわざわいが起きるなら、俺はとうに死んで、俺たちの家は燃えていたことになるわけさ。
「どういう意味か、分かるか?」
 分からない。
「あれは、人工的に引き起こされた『事件』なんだよ」
 真っ暗闇に、抑揚のない声。
「人を殺すのは、人だ」
 僕は、その意味をしっかりと嚥下した。人工的な心臓麻痺。人工的な火事。
「人を殺すのは人」
 よし兄は自分の言葉を噛み締めるように繰り返して、僕の腕を捉え、抱き寄せた。びしょ濡れの兄は、生ぬるい。
 最後の秘密だよ。
「最後に、お父さんが飲んでいたお酒が、あったろう?」
 よし兄の胸から声が伝わってくる。
「あれは俺が東京から持ってきた、グラモキソン入りの焼酎さ」
 それは、こないだ僕が納屋で触ろうとしてトシさんにこっぴどく叱られた、農薬の名前だった。
「身内を人身御供にすれば、集落の連中に俺は殺されなくて済む」
 俺は愛する人と、アメリカへ行く。
 ぎゅ、と、僕を抱く腕力が、強くなった。ギリギリギリ。僕は、締め付けられる。息が出来ない。喘ぐ。もっと、強くなる。後頭部を鷲掴みにされて、胸板に押しつけられる。ガタガタガタガタ、と、僕を締め付けた大きな躰がふるえ始めた。俺が殺した。俺がお父さんを殺した。顫動は止まらない。
 苦しいよ、よし兄、よし兄!やめて!嘘だと言って!
 叫んでも、やめてくれない。否定してくれない。僕は、殺人者に抱かれてる。お父さんを毒殺した兄に抱かれている。怖い!やめて!やめてよ!離して!悲鳴は胸板に潜り込む。
 フフフ、ハハハ。
 兄は高らかに、笑い出した。それは、兄は、ただの壊れた、大きな人形だった。ガクガクと上下に体を揺らして、声を反響させる。共鳴させる。響きは水溜まりを伝い、洞窟中が不協和音の音の塊になる。僕は、窒息した魚のように痙攣する。僕は、魚。釣られた魚は足掻いて、暗闇の、もっと深部に落ちて行く。眠りの底で眠りに落ちる、それが、死。

「俺は、人殺しだ!」
 水面で、泣き叫ぶ、溺れかけたような子供の声がした。
 それからのことは、僕は、何も知らない。

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