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酔って思ったことを連綿と書き残す11「数字に丸を囲えるのが⑩までだった/狂乱に就いて」

これは、想定外だった。
100ぐらいまでは丸で数字を囲えると思っていた。
10が囲えるなら、99まで頑張れるだろうに。11からないなんて、Appleは随分と怠け者だな。
(iPadで書いています)

人は狂うと、闇雲に死のうとするイメージがあるかもしれないけど、藁にもすがるように生きようとします。寧ろ、生きようとがむしゃらに頑張ろうとします。
死にたいなあ、そうつらつらと思う時分にはまだそこまで気狂いではなく、却ってとても危ない状態です。
本当の狂乱は、随分と可笑しな物語を生み出します。
私の今は危ないが、私が最も狂乱した頃の、これから書く出来事は、寧ろ安心した心持ちで、命懸けの、とても恥ずかしいものです。
 
今から13年前、2010年9月の2つの出来事を記そうと思う。
当時の私は、配偶者と、その両親と横浜で暮らしていました。配偶者は13歳年上の自称アーティスト。彼は、その両親が40代で初めて授かった男の子。義母は結婚当時から認知症でした。彼は裕福な家庭で甘やかされ育ち、私と同じ由来で幼少期にいじめられ、劣等感から生まれる誇大妄想を、シンプルに作品として表現していた人だった。
互いに詩人だった。
互いに音楽をやっていた。そういう人は、相手を互いに利用し合う。
私は、その人と結婚し、その後、認知症の義母の看病と、彼からのたび重なる心理的DVが混在した。その最中、私は痙攣性発声障害(加えて、機能性発声障害を併症)という、所謂「唖の鳥」になり、それに就いては彼から「どうせ俺のせいでそうなったって言いたいんだろう?」という憫笑を受けたが、それは敢えて否定する。
その頃の私は某電電公社で働いていた。当時、或る、処しがたい苦情を申し受けていた。私は、人間は、つくづくいかれたものだと、ずっと思っている。その謂れなき苦情と、彼からの暴力は、明らかに同質だと思う。端的に言うならば、私は、当時、病まされていた。なので、発声障害の発端の、どちらがトリガーだったのかは分からない。分からない以上、彼のそのマウント取りは否定する。

2010年9月に、私はそんな現状を捨てた。
ひとつ目の出来事は、目黒狂乱事件である。
 
彼は、同年3月にロト4を当てた。私の貯金を食い潰した情けだったのか、80万のうちの10万円を私に渡した。
私はその10万円を、発声障害の手術費に充て、一週間入院をするという冒険を犯した。
彼が、手術同日の夜、全身麻酔がとけた私が出迎えに来ないことを罵った(話は破断するが、全身麻酔は、それはそれは気持ち良かった。今だって夢に見る。かねてからの自殺願望者である自分は、若し生まれ変わるなら麻酔科医を志すだろう)
 
予後しばらく、東京の三田にあるその病院に通っていた。
その帰り道、目黒駅で一旦降りて、乗り換える、その道中で、相当に頭がいかれていた当時の私は、駅前のメンタルクリニックに道場破りをしたのだ。
保険証を入り口で渡して、診療室に突っ込んで行った。
時刻は17時だった。
彼の規則で、その時間には私は家にいて、夕飯を作るのが鉄則だった。一刻の猶予もない。もうその時点で、彼から帰宅後に罵詈雑言、暴力は、目に見えたものだった。
「時間がない。だから帰る!」
診療中の他の患者さんを巻き込んで、そんなことを言い散らし、帰ろうとして、看護婦さんに止められた。医療費を払った記憶はない。ただ、渡されたのは処方箋だった。
横浜への帰路で、床に坐って、それを斜陽に透かしたりした。
狂人だった。
なんで、病院なんかに行ったりしたのかすら分からないほどの狂人だった。
でも先生は、数秒だけ診察をした私に処方箋を出した。
これはのちのち知ったことなのだけど、私はその処方箋を、家庭不和である実家に郵送していたのだそうです。

病院に行く暇がなくても、行けば処方箋を出してくれるかもしれません。

次のエピソードは、その数日後。
私がここで言いたいのは、狂乱した、そんなみっともない自分のあれこれではなく「あらゆることは、なんとかなる」だよ。

彼の口癖は「(文句があるなら)出て行け!」だった。
私は或る作戦を思い立っていた。
それは、退院後にその口癖である「出て行け!」を言われた時に思いついたものだった
「出て行け!」を言わせて、「次に『出て行け』と言われたら出て行きます」と明言して、相手に次を言わせれば、出られるんじゃないか。
狂った人間は、死のうとはしない。いや、あの頃は、正直に言えば、あの手すりに布を巻きつけて、頭を入れれば、だの、家にある工具で頭を引っ掻きすれば、などと、相当に狂った状態だったのだけど、そこまでいくと、却って人は死なないらしい。脱出は、未来なのだ。
そうして、私は、彼の好きな味の素のマヨネーズではなく、キューピーのマヨネーズを購った。
それが、目黒狂乱事件の数日後だった。
「出て行け!」と言われた。

出て行きました。

時刻は22:10。彼と最後に交わした言葉は「それは、脅し?」だった。
私は何故かその時はとても冷静に、列車の最終時刻をガラケーで検索した。
もし、あの時、間に合っていなかったら、私は横浜の海に飛び込んで死んでいただろうか。
いっそその方がよかったのだが、国元までいく新幹線の最終列車が、15分後に新横浜駅を出発するのを知った。
私の実家は家庭不和なのに、何故かそこを目指した。先述の処方箋の件も頗る可笑しな話なのだけど、狂った人間は、見境もなく、生きようとするのかもしれないね。
新横浜駅に、最終便の2分前に着いた。
Suicaを使って、在来線でそこまで行った。でも、そこからSuicaを清算し、旅賃を払い、電車に乗る時間はなかった。
私は駅員さんに詰め寄って「最終便に乗らせてくれ!」と直談判したのだよ。
可笑しな話だ。国元は、不和なのだよ?彼らは、私をずっと、どうでもいいものだと思って居るじゃないか。
もう、醜態の極みだ。
最悪だった。

駅員さんは、私にペラペラの、紙切れ一枚を渡して、背中を押した。

今となってはSuicaで新幹線にも乗れる。
でもその当時は、交通系ICはその地方でしか使えない未整備なものだったし、今でも交通系ICのエリア跨ぎはできない。
駅員さんが渡してくれたその紙切れは、それを覆すものだった。
言われた通りに、私は国元の新幹線の駅で、Suicaの精算と、旅賃を支払った。
私は、言いたい。
JRはすごい。
時間がなくても新幹線に乗せてくれるよ。

その紙切れで、私はSuicaも何もかもを清算して、そうして、その時着ていた衣類と、ガラケーと銀行の手帳と年金手帳と借金からリスタートすることになった。

あの時に死んでいれば、今、悩まされている身辺整理の何もなかった。
と今更に思えど、あの日のJR新横浜駅の駅員さんは命の恩人だし、なんだかんだと自分を擁護した実家も恩人に他ならない。
感謝します。

あらゆることはなんとかなる。
狂乱した方がいっそいいのかもしれない。
最悪で醜悪な人間になった方が、いいのかもしれない。

でも、何ごともないのが、いちばんいいに決まってるんだ。

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