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酔って思ったことを連綿と書き残す20「祭」

「ホリミヤ-piece-」を見ている。
高校生活は基本的にサボってばかりだったにせよ、お祭り系は覚えている。

体育祭。
2年連続でゲームセンターでサボってた。
3年生の時は部活の後輩男子Sと一緒にサボり、体育祭が終わる時間に部室に戻る道すがらで、「僕は別の人が好きですから」と先手を打って振られたのだが、生憎と当時は色恋沙汰にはとんと疎かった。
Sとはよくつるんでサボったりなんやかんやしていたが、好きでも嫌いでもなかった。
ちなみに今思うと「ホリミヤ」の」ミヤ的な、今思えば、ハイスペック男子だったなあ、惜しいことをしたな、とちょっとは思うけど、その先手の言葉を受けて、「ごめん、なんとも思ってなかった」とも言えず、なんと答えたかも覚えておらず、部費からくすねたお金でたこ焼きを買って食べたことだけは覚えている。

文化祭にも色々思い出がある。
1年の時はまださほどサボっていなかった。クラスの催しで、某特撮ドラマの劇をやることになり、私は黒子をやった。
下ネタを大いに含んだその劇は〆が感動的に作られていて、1位になった。
その打ち上げが、Mくんの家で行われることになり行ったのだが、それがかなりの闇パーティーだった。
Mくんはお金持ちの子だったのだろう。家が、ビルだった。
ご家族はどこかへ行ってしまっており、家にはMくん一人、そこに大量の酒(ビールのピッチャーがどんどんと運ばれてくる)、大量のスナック菓子、大量のケンタッキーフライドチキン。

一応進学校だったはずなのだが、当時はそういうのは、ざっくばらんだったんだろうね。破断するけど、別の折に餃子の王将でビール飲んでたら、先生が偶々いてバレたのだけど、最終的には先生と飲み交わして終わったものね。
今だったらどちらも退学ものだろうね。

話は戻って、その打ち上げは20数名の高校生が朝になるまで自由に酒を飲み交わし、好きだけ食べ、あちこちの個室で聖なる行為が行われ、文字通り「酒池肉林」と化した。
サボってなかったにせよ、そう仲良くもなく、劇に参加していたから呼ばれただけの私は、一人で誰も飲まなくなったピッチャーのビールを飲んだ。
翌日、周りの同級生はさわやかに起きて、私はちょっとぐったりとしていたのだが、燦々と照る太陽を浴びながら(9月だったと記憶している)、知らない先輩男子の自転車の後ろで立ち乗りして、帰ったことを覚えている。

2年の時は、地学部の手伝いをした。
1年の時に、地学部でサボっていた。2年からは隣の文芸部を拠点にサボっていた。多分丁度、当時は両部とのグレーゾーン状態だったのだろう。
文芸部は特に何もしないから、手伝いに行っていたんだろうと思われる。教室を目一杯使い、恐竜の骨の模型を作った。
よくパズルとか、ディアゴスティーニの付録とかにありそうな、恐竜の骨のパーツを作って、組み立てる、それの教室バージョンだね。あれは楽しかった。1ヶ月ぐらい、放課後の地学室に通った。
そして、授業後に教室に「あいつ来てるぞ」という情報が漏れて、先生が来る足音がするたびに、準備室→廊下へ逃げるという、鬼ごっこをした。
捕まったら補習だからね。命懸けさ。
結果的に、壊すのがもったいないような、良い恐竜ができたように思う。
地学部って数人しかいなかった気がするんだけど。
その割には地味な催しには違いなく、さほどの来客もいなかったように記憶している。

地学部関連では、1年の夏に遠征をした。愛知の篠島というところだ。
今となってはあれこれと工夫がもたらされているところのようだけど(詳しくは知らない)当時は何もない島で、星を観察するなど地学部っぽいことをして、夜にはキャンプファイヤーをしたりもした(数人で)
でも、最も覚えているのが、島は晴れていたが、本土は雷雨だったことだ。
稲光が本土に幾閃と、雨のように落ちてゆく。
どんな綺麗な花火よりも美しかった。
フナムシさえいなければ、島暮らしもいいかもしれないと思った。あいつらはマジで無理だ。

文化祭の3年の時はまるで覚えていない。多分、Sとサボっていたのだろうね。その頃となると、完全に教室に行かなくなっていたから。
体育祭は、よく知らない同級生に追いかけ回された気がする。参加しろ、と。あとは、そのテーマソングが「涙の数だけ強くなれるよ、アスファルトに咲く花のように」という歌詞の曲だったのは覚えてる。
文化祭は、でも、焼きそばを食べたような気はする。一応、行ったのかもしれない。
誰かが買ってきたもの(もしくは、焼きそば担当者がいて、賄賂を受け取った)かもしれない。
紅生姜が多かったのを覚えているから、食べたのだろう。

私は大学進学をしなかったが(そう申し伝えた時、しばらく先生方が数人、追いかけ回してきたな。当時は100%の進学率だと謳っていたし、サボっていた割にはテストの成績だけはちゃんとしていた。人のノートの力のおかげで)
でも、私たちの代で、半分が大学に不合格だったと聞いているよ。
涙の数だけみんな強くなったのかな?
そして今ではもはや進学校でもなくなって、当時の理系の、チャラかったN先生が校長を務めているらしい。
私が当時サボっていた部室は、その頃から相当に軋んでいたので、もう、ないらしい。
正門前のたこ焼き屋もないそうだ。

結論として、意外と楽しかったかもしれない。高校生活。
先生に追い回され、屋根裏でたこ焼きやお弁当を食べ、先輩が窓辺に半年間放置した、プルタブを開けた午後の紅茶ストレートティーを捨てようとしたらゼリー状に固まっていて美味しそうになっていたこと、特に、高校3年間、正門前のたこ焼きだけは毎日食べていたこと。地下鉄サリン事件が遠く東京で起きて、ある先生の親友が亡くなった、その独演会がなぜかあったこと。遠くの神戸の震災があって、授業を取りやめて、テレビ中継を自習代わりになって、という話を部員に聞かされて、教室に行ったら、やっぱり先生に追い回されたこと。
色々あった。
でも、正門前のたこ焼きが、いちばんの青春の基軸だったかもしれない。
逃げる、学校外に出る、たこ焼き屋に行く。サボる生徒なんてほぼ皆無な現場だったので、お店のおばちゃんも、珍しかったのだろうね。
すっかりと常連だったのです。

ちなみに蛸のあまり入ってない、こんにゃくと紅生姜多めのたこ焼きでした。西には珍しい、醤油味だったよ。

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