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短編小説「うつくしい池」

 それはそれは立派に輝くものでした。さんざめく太陽の光を存分に照り返し、夜にはひっそり佇む月光を一身に集めるのでした。それは美しくもあり、毒々しくもありました。それは淡い青色を魅せる時もあれば、一方で闇夜のような漆黒を秘める時もありました。そんな噂が広まっていましたから、この池に近づこうなんて考えを持つ者は一人もおりませんでした。
 一方で、なぜそんな噂が広まったのかを知る者はどこにもおりませんでした。いつから伝わるものなのか、本当に恐ろしい池なのか、どこまでが本当でどこからが嘘なのか、誰一人としてその質問に答えられないのでした。けれど、この池は人々から心底恐れられていました。
 池のあるこの森には、年中さまざまな生き物たちが集います。立派な角を生やした雄鹿に、木と木を飛び回るモモンガ、長い手で踊り狂うオラウータン。なぜこんなにも来るのかと不思議に思うほど、それはもうたくさんの動物がやって来ます。彼らはこの池の水を飲んで生きているというのです。そして彼らは驚くほどうつくしい体を持っていると言うのです。

 この国には今年十六の歳になる王子がおりました。王子は少々聞き分けが悪く、乱暴で、従者も手を焼いているそうでした。次期王としての教養を身につけるべく、日頃の言動から勉強、遊び、そのすべてが従者とともに行われるよう徹底されておりました。もちろん王子はそんな教養なんて必要ないと言い放ち、それほど真面目に取り組んではおりませんでした。
 十六というのは一つの区切りであり、この歳から王族の男どもは狩りに行くようになります。王子も例外ではなく、あと三日後の十六歳の誕生日には、初めての狩りに連れて行かれることになっておりました。そしてとうとうその日がやってまいりました。正直なところ、従者はこの日が来るのをとても恐れていました。なんといってもこの王子のことです。これまでにも幾度となく王族らしからぬ行為を見せ、さんざん頭を悩ませてきました。そんな王子に弓矢を持たせるなんて危険すぎる、従者は大変危惧しておりました。
 その日はとても天気がよく、昼下がりに王子の初めての狩りが始まりました。もともと少々気の荒い性格もあってか、はじめて見る鹿にも動じることなく、素早く弓を引きました。実際に狩りに出るのは十六からとは言え、弓矢の訓練というのは十の頃から始まってますから、彼の弓さばきというのは目を見張るものがありました。その後も王子は一寸の狂いもなく、次々と動物たちを狩ってゆきました。
 従者はそんな王子の様子を背後から見守っていたわけですが、とうとう帰りの時間がやってきてほっと胸を撫で下ろしました。王子はすっかり狩りに夢中になり、それ以外のことに興味を示さずにいてくれたからです。通りかかる人に対して弓を向けることもなく、無事王子の初狩りは終わりを迎えたかに思えました。しかしまだ終わりではなかったのです。
 この森には危険区域とされている場所があります。そう、あの聖なる池のある場所です。王子たちは気づけば随分と森の奥深くまで来ており、そろそろ危険区域に到達するあたりにおりました。少々陽も陰ってきておりましたから、それを理由に従者はそろそろ戻りましょう、と皆に声をかけ、高らかに角笛を吹き鳴らし、狩りの終わりを告げました。
 すべての者が馬を帰路へと歩かせたかに思いました。けれど王子の馬だけが見当たりません。従者は口から心の臓が飛び出るほど焦りを隠せませんでした。王子にはあれほど伝えていたはずです。池へ近づいてはなりません、と。けれど池の近くまで来た今になって王子はただ一人姿を消したのです。どこからか仕入れてきた噂をもとに、あろうことか、王子は従者の目を盗み、勝手にこの場所へと足を踏み入れたのでした。
 従者は自分の行動がいかに甘いものだったか思い知らされました。しきりに目を離さずにいたというのに、このときになって一瞬目を逸らしてしまったのです。目を惹くほど大きく立派な牡鹿が通りかかったからでした。そもそもあんなに生意気な王子が十六にもなって従者の話を聞くはずがありません。狩りという初めての経験をさせ、万事ことが進むなんてことはあり得なかったのです。それなのになぜ、こんな大事なときに目をそらしてしまったのか。従者は自分を大変責め立てました。
 けれど気を落としている暇はありません。どれほど生意気な王子であっても、彼はこの国の後継人です。どんなことがあっても彼を守り抜く、それが従者に与えられた使命。従者は皆を無事城まで送り届けると、ひとり、ふたたび森へと戻ってゆきました。
 一国の王子を守る従者とはいえ、あの池には近づきたくありません。出処のわからない噂ばかりが耳に入り、本当の姿を知る者は誰もいないのですから。スラリと背が高く、肩幅も広く、常に威厳を見せている従者ですが、ひとりこの森へ進む姿は、どこか小さく見えたものでした。踵を返したその瞬間、彼の馬がひと声ウーッと唸り声を上げました。それは少々野性味を感じさせる声でありました。
 森を照らす陽が西に姿を消した頃、従者は王子を見失った危険区域の手前に到着しておりました。彼は大きく一息吐くと、危険区域へと馬を進めました。そのとき珍しく彼の馬が後ろを振り返ったことを従者は気づきませんでした。
 そのまま真っ直ぐ彼は進んでゆきました。危険区域の場所も、そこに噂の池が存在することも知っていましたが、明確な場所までは知らないのです。どこへ向かえば王子がいるのでしょうか。森の暗闇というのはより一層物音が響き渡るものです。いくら従者とはいえ、時折身を震わせて辺りを見渡しました。そのとき彼はこう思いました。
「いくら生意気な王子だって、こんな暗闇に一人取り残されては心細いだろう。となればそんな奥までは進んでるはずはあるまい」
 その頃王子はといいますと、ひとり城へ帰り、呑気にいつもより遅い夕飯を召し上がっておりました。そのことはもちろん王も召使も知っています。王子はあの池へ行ったわけではなかったのです。長いこと狩りをして疲れていた彼は、馬を降りて、木陰で休んでいただけなのです。そんなことあるはずないと思いこんでいた従者が、彼の姿が馬の背にないことに驚き、勝手にどこかへ行ってしまったと焦っていただけなのでした。
 その晩、従者は城へ帰ってはきませんでした。けれど王も王子も、はたまた他の従者や召使も誰一人としてそのことを気にかける者はいませんでした。それ以上に彼が森の中へ自ら姿を消してくれたと、歓喜の声を上げるものまでおりました。このことを知ったら、従者は失神してしまうかもしれません。これまであれほど手を尽くしてきた一家に、一瞬にして見放されたのですから。
 けれどそれはきっと従者の思い違い。彼は王子の従者でありましたが、とても熱心な従者とは言い難い人でありました。王子が生意気な態度を取るのも、従者が自分に手を焼き逃げてくれる日を望んでのことでした。従者はもともと王の大親友でありました。身分は違えど、それはそれはとても馬の合う二人でした。少年時代の王はよく彼にこう言いました。
「自分が王になった暁には、君を息子の従者にしよう」
 王はその言葉を守り、息子である王子が産まれたその日から彼を従者に従えました。しかしこれが悪夢のはじまり。王の妻、つまり妃はかつて従者が愛した元恋人でありました。けれど王のほうが身分も高く、教養もあるという理由で捨てられていたのです。そのことを何も知らなかった王はかつての約束を守ることが彼のためになると信じ、従者にしたわけですが、従者となった彼は王と元恋人への復讐に煮えたぎっておりました。
 従者は夜眠りについた隙を狙って呆気なく元恋人を殺してしまいました。王子には何か一つでも間違いを起こすたびにひどい暴力を振るってきました。あたかもそれが従者として正しい姿であるかのように。次第に従者の素性が明らかになってくると、王は彼の身辺調査をはじめました。そこで初めて王は妃が彼の元恋人であることを知ったのです。彼を過信し、一切の身辺調査もせずに従者としたかつての自分を恥じました。
 それからというもの、王は王子にこう躾けるようになりました。
「従者の前では大変な手焼きの者となれ」
 王子は父である王のことを大変慕っておりましたから、理由を聞かずともその言いつけを守ってきました。そしてついに彼らの鬱憤が晴れるときが来たのです。王子の初狩り。すべては計画通り。本当は噂の池なんて存在しないのです。うつくしい動物も、うつくしい池も、すべてはデタラメです。あの危険区域に存在するものは、うつくしい池ではなく、獰猛な鰐が静かに、けれど口を大きく開けて待つ、地獄の楽園なのです。
 誰よりも早く鰐の気配を感じ取った従者の馬は、立ち入る前に帰り道を確認しました。真っ直ぐ進み続ける彼を置いて、どこかで自分だけでも逃げられる方法はないかと頭を巡らせていました。なんといっても、この馬はもともと妃のためにこの一家に来た馬だったのです。それをこんな従者のために命を落とすなんて御免。
 しばらく馬を進めた従者は、どこまで進んでも池らしいものが見当たらないと気づくと、一度休憩しようと馬を降りました。その瞬間、馬はこれまでに見せたこともない速さで、従者のもとを走り去りました。彼は声を荒げ、必死に馬を追いました。従者も大変な韋駄天でありましたが、それでも到底馬の速さには叶いません。そして足元では彼の叫びを聞きつけた鰐が目を光らせていました。
 その後の彼の姿を知るものはおりません。けれど、馬が帰った城では王子が待ち構えていました。王子はふたたび母親に会えたようでそれはそれは喜びました。それからというもの、王子の悪評は瞬く間に消え去り、次期王として大変慕われるようになりました。


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