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他人の本心とは、自分がどのようにその人を信じているかってこと

「あの人の本心がわからないわ」
なんて言う人がいるが、私は誰の本心も知ったことがない。


本心とは、そもそも誰の真実なのか。


読み取られる側の真実なのか、それとも読み取る側の真実なのか。


人はある程度、自分に嘘をついて生きる。


もし、「私は自分に嘘をつかない」
と言う人がいたら、嘘をつかないという言葉が嘘だろうと思う。


みんなから「優しいね」「良い人ね」と思われている人は、上手く生きている分、どこかに嘘がある。


みんなに同じように接したら、傷つく人ができてしまうこともある。


「みんなに同じように接しているよ」という平等を保つために、人によって言葉や表現を変えたり、演技していることだってある。


優しさは嘘を生む。


私は嘘つきの自分が嫌だったから、正直になろうとしたのだが、正直になればなるほど、周りは私から離れていく気がした。


そして、正直になればなるほど、自分の嘘への罪の意識が高まるのを感じていた。

と、同時に他人の優しさに隠れる嘘を卑しいと感じていた。優しさなんて嘘なんだと、思っていた。

他人の嘘も許せなかった。

ある時、堪えられなくて、私は嘘つきでもいいやと思うことにした。


周りにとっても、自分にとっても良いことを取るなら、自分の中の多少の嘘は許せるものだ。

そして気づけば、他人の嘘にも寛容になっている。


不思議なことに、嘘のつもりでいたのに、嘘じゃなくなることがある。


嘘がつける今、今度は嘘って何だろうと考えている。


結局、本心なんてのも空想かもしれない。

その人をどのくらい知って、どれだけそのことを信じるか。

何をどうやって信じるかは自分次第なのだ。





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