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わたしの軌跡をまとめています。
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わたしについて

【noteを始めた日】   2021年4月1日 【生まれ年】    午 【星座】    射手座 【生き甲斐】 音楽すること  子どもと触れ合うこと 【演奏楽器】   ピアノ  声 【勉強したこと】    良い音楽とは何か  イタリアの魅力  楽しく生きること 【趣味】   ストレッチ、散歩、ジョギング  同じラジオ番組を繰り返し聴く  手先を使う作り物 【好きな色】    オレンジ 【好きな本】 『コンビニ人間』(村田沙耶香)  『博士の愛した数式』(小川洋子

愛する道のり

愛することができないのは、愛されたと感じたことがないから。 愛されていないと感じるのは、愛を感じられないから。 愛を感じられないのは、信じられないから。 信じられないのは、自分を信じられないから。 自分を信じられないのは、自分がわからないから。 自分はよくわからない。自分は一つではないから。 でも、どんな自分も自分だとわかると、 自分のことを信じられるようになる。 自分を信じられると、他人を信じられるようになる。 他人を信じられるようになると、愛を感じられる

自分を縛りつけていたものは、自分。

私は過去、火星人でした。 火星人になりたくてなりました。 なぜなら、 地球に存在する人間として、 自分は相応しくないと思ったからです。 周りの人が笑うことの何が面白いのかがわからない。 「楽しい」と口にするその感情の源がわからない。 周りにいる人たちが、皆同じ目的で同じ方向を見ている中に自分もいる時、 キューっと自分がどんどん小さくなって、何も考えられなくなってしまう。 また、人間の顔についている目、鼻、口といったものが、 ただの生命存続のための器官だと思った瞬

ありがとう、イタリアのみんな

1年弱過ごしたイタリアから帰国する数日前に書いていたことが、今の私の原点だと思っている。 *   *   * 明後日フィレンツェを発って日本に帰る。 一言で言えるのは、日本を出て、イタリアに来て良かったということ。 一生の中で、この一年は間違いなく例外的な一年になるのではないかなぁと思っている。 うん、なるだろうな。 イタリアの日常会話でよくcome vuoi、つまり、あなたのしたいようにって言われたし、言ってるのもよく聞いたけど、 私にとっては、より身近にある

今私が、ヒステリーを起こす子のためにできること

私は、成長の過程でヒステリーを起こすことがあった。 ヒステリーとは・・・ 今回は、そんな自分を振り返り、今の自分ならどうするかを考えてみた。 1.ヒステリー女になる時 ヒステリーになるのは必ず家の中で、小学生のころが一番頻繁だったように思う。 大きくなるにつれ減ったが、最後は二十歳の時だった。 『ヒステリー』という言葉が、私は好きではない。 私が自分でも訳が分からなくなるほどに怒り狂って叫ぶ時、母は「やかましいっ!ヒステリー女!」と言った。 そういう母が、私は憎

ブランケット症候群と戦わない

こういうのを、ブランケット症候群と呼ぶ。 スヌーピーの仲間、ライナスくんがブランケットを手放せないことから、ライナス症候群とも。 そしてこのブランケットのことを「安全毛布」という。 どれも、心理学用語だ。 私の記憶に残る絵本『ジェインのもうふ』もそんな感覚を思わせる。 私はジェインの持つ毛布に強い憧れを抱いたのを覚えている。 人は生まれてから、成長のどこかの段階で母親から離れる。 その過程で、何かにすがって安心を求める。 幼いころは、身近にあるタオルや毛布、ぬ

私は生まれなかったかもしれない命

姉と私の間には生まれるはずの命があった。 その命が生まれることがなかったから、私は生まれることができた。 このことを知ったのはいつだったか・・・ けっこう大きくなってからだった気がする。 母は私に言った。 「あんたは生まれてなかったかもしれないんだよ。」 その頃の私は、母の言葉の中に何一つ肯定的な意味合いを感じ取ることができずにいたから、自分が今ここにいることが申し訳ないように感じた。 その命の分までちゃんと生きなくちゃいけないんだと思った。 時々自分が情けな

私の心にいてくれるみんな、ありがとう。

私が1歳の頃、父は病気で度々入院していた。その父が通院生活からも解放されて、半年が経ったころ、弟が誕生した。私は2歳半になっていた。 母は3人目の子育てを楽しみにしていたようだ。 姉の時は育児ノイローゼになり、私の時は父の病気でバタバタ。 「3人目は楽しいよ」と周囲からも聞いていたようだ。 ところが、弟の誕生後、明らかに母の体は不調になった。 完全に腰が抜け落ちたような感覚だったらしい。歩くことも困難。 ひどい腰痛で産後も毎週病院通いとなる。 1か月後、病院の検

1年で何度も死にかけた父 ― その時私は1歳だった。

私は生まれた時泣かなかった。 私が生まれた日、父は仕事の後に飲みに行っていたので、翌朝まで私の状態のことも、生まれたということも知らなかったようだ。 生まれた後の一年ちょっとは順調だった。 母によれば、私と歳にして5歳ほど離れた姉が、異常なまでに手がかかったのに比べて、私は「ほとんど手のかからない子どもだった」とのこと。 生まれた時からとにかく寝る。排尿間隔も長い。病院の看護師さんは、そんな私を見て、「なに、この赤ちゃん、おじさんみたい。」と言ったらしい。 12月生

先生の「みんなが好きだ」が忘れられない

私の小学校での話。 4年生の時、学級崩壊が起きた。 3年生のころから、クラス内で始まったいじめ。 一人の子を標的としての 悪口、無視、バイ菌扱い・・・。 「やってはいけないとわかっていても・・・」は嘘だ。 私はやってはいけないと思っていなかったと思う。 その子の痛みを想像しなかったから。 想像することが怖かったから。 弱くて卑怯だから、 面白がっていた。 やってることも、考えていることも最低だった。 4年生になった。 クラス替えはなかったが、担任が変

『愛着障害』の克服法を自分なりに実践してみたら・・・

私が「本当の自分とは」という問題に直面したのは、かれこれ10年前になる。 そして、私が岡田尊司著の『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』を読んだのは、今から5年ほど前。 自分探しのきっかけをくださった先生が、「面白い本があるよ」と紹介して下さった。 読み終えて、先生にその感想を伝えるがごとく、私は自分のノートにこんなことを書き残している。 『愛着障害』とは・・・ ここでは、さらっと簡潔に書く。 私の中での問題は、自分が愛着障害であるか否かというところではなかった。

自分探しの幕開け

「音楽って結局はその人がどんな人かってことなのよ。」 「あなたが、あなたの声で歌うんだよ。」 と、先生はおっしゃった。 わたしが先生と出会ったのは二十歳になる年だった。 今から10年ほど前になる。 その言葉を理解して以来、わたしの大きな目標の一つに、 『自分の声で自分の音楽をする』 というものができた。 どんな瞬間も心にはそれしかなくて、 自分の声と自分の音楽を辿るうちに、 「本当の自分とは何なのか」 という大きな問題にぶち当たった。 それが大きな問題

人に伝えたいものがあるから、自分を伝える

私は今までずっと、他人から「あなたは大丈夫」と言われて生きてた。 自分では何が「大丈夫」なのかわからないけど、ある人の言葉を借りれば、 「自立している」ということなのだと思う。 だけど、私が「大丈夫な人」であるのは、そうならざるを得なかった環境があり、 また、生まれ持った思考の故だということを知っている。 自分の中では、どんな時でも「大丈夫な人」であったわけではないし、 「大丈夫な人」であることから抜け出したくなったり、 いっそ「ダメな人」と言われる方が楽だと思

生まれた時、泣かなかった。

よく子どものケンカで、 「やーい!泣いてる!」 -「泣いてないもん!」 「泣いてたし!」 -「泣いたことないもん!」 「1回もないの?」 -「ない!」 「生まれた時は?」 -「・・・。」 みたいのがある。 わたしの子どもの時にも、そんなやり取りがあったが、 わたしは生まれた瞬間に産声を上げなかったので、 「生まれた時も泣かなかった」と自信を持っていた。 「むしろ生まれた時、死んでたもん。」 と言って、周りを黙らせた。 こんなこと、自信を持って言うことではないと、 当