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先生の「みんなが好きだ」が忘れられない


私の小学校での話。

4年生の時、学級崩壊が起きた。

3年生のころから、クラス内で始まったいじめ。

一人の子を標的としての

悪口、無視、バイ菌扱い・・・。




「やってはいけないとわかっていても・・・」は嘘だ。

私はやってはいけないと思っていなかったと思う。

その子の痛みを想像しなかったから。

想像することが怖かったから。

弱くて卑怯だから、

面白がっていた。

やってることも、考えていることも最低だった。




4年生になった。

クラス替えはなかったが、担任が変わった。

ベテランの男の先生だった。

いじめの標的は、先生になった。

いじめられている先生は弱いと思った。




誰も先生の話を聞かず、

授業は成り立たない。

後ろからとがった鉛筆がダーツの矢の如く飛んでくる。

壁の日本地図は穴だらけ。

席も自分たちで勝手に決める。

いつでも参観可能なクラスとなり、

入れ替わり立ち代わり、親たちが様子を見に来る。




それでも、私たちは変わらなかった。

「いけない」と言われても、

「いけないこと」がもうわからない。

自分たちがしていることでありながら、

何が起こっているのか、

どうしてこうなっているのかがわからない。




解決も導けない。

止まれない。




ある日。一人のクラスメイトが先生を殴った。

先生は抵抗しなかった。

3年生の時にいじめられていた子が

教頭先生を呼びに走る。

周りがいつもと違う騒がしさになった。

「もっとやれ!」という声も聞こえた。

でも、私の中に響いている声は、

「どうしよう」でもなく、

「やめて」でもなく、

「先生、何で?」が近かった。




先生は殴られて痛むお腹を押さえて、

「保健室に行く。」

と言った。

「その前に、みんなに一つだけ言いたいことがある。」

教卓に力なく歩み寄る。

「 みんなが何をしようと、

  みんなが私を嫌おうと、

  それでも、私は、

  みんなのことが好きだ! 」

先生はそう言って、身をかがめて立ち去った。




先生の目に浮かぶ涙が、痛みによるものなのか、

必死な思いだからなのかさえ、想像しようとしなかった。

想像してしまったら、

自分のしたことが痛みとなって自分に返ってくることがわかっていたから。






だから先生のその姿を見て、

私は恥ずかしくてたまらくなった。

「 何で?どうしてそんなこと言っちゃうの?みんなが笑うかもしれないのに。」

これが私が抱いた気持ちだった。

先生の言葉が心に届かないようにした。




少し経った日の放課後、

一緒に遊んでいたクラスの友だちが、

「わたし、先生がかわいそうだと思う。」

とぽつりと言った。





「わたしもそう思う。」

と返事をした。




自分を卑怯の極みだと思った。

狡い。狡すぎる。

今まで何があっても、先生の気持ちを想像しようとせず、

先生の気持ちを無視し続けていたのに。

クラスが崩壊していくのを、半ば面白がっている自分だったのに。

そんな簡単に良い子ぶれてしまうんだ。




本当は友だちが言ったその言葉を、ずっと待っていたんじゃないのか?

自分から言うのが怖いから言わずにいただけで、

「先生は辛い」ってわかっていたくせに。






私は自分の中に大きな罪を感じた。

人の気持ちを想像することを避けた自分が情けなく思えた。

そして、その友人は勇気のある人だと思った。




今思い返すと、胸が痛くなる。

目頭も熱くなる。

ようやく先生の気持ちを受け取り、

それを心の中に響かせられる人間になりました。




先生は私たちの誰一人も傷つけなかった。

心を守ってくれていたのだと思います。

私たちの未熟さゆえの不完全な感情や、

醜い恐怖心に向き合ってくれていたのだと思います。




先生は弱かったのではなく、強かった。

先生があの時、「みんなのことが好きだ!」ではなく、

「何てことをしてくれる!教師なんか辞めてやる!」と叫んでいたなら、

先生は私の中でずっと「弱い人」だったと思う。





今もこうして、先生のことを思い出し、

あの時のことを思い出す。

「忘れられない」って、それだけ心に響いた証拠。

先生の言葉、その中の気持ち、

ずっと大切です。











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