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1年で何度も死にかけた父 ― その時私は1歳だった。

私は生まれた時泣かなかった。

私が生まれた日、父は仕事の後に飲みに行っていたので、翌朝まで私の状態のことも、生まれたということも知らなかったようだ。

生まれた後の一年ちょっとは順調だった。

母によれば、私と歳にして5歳ほど離れた姉が、異常なまでに手がかかったのに比べて、私は「ほとんど手のかからない子どもだった」とのこと。

生まれた時からとにかく寝る。排尿間隔も長い。病院の看護師さんは、そんな私を見て、「なに、この赤ちゃん、おじさんみたい。」と言ったらしい。



12月生まれの私が1歳となり、間もなく保育園に入るという3月の下旬、父が入院した。原因は胆石。

それまでも度々痛みはあったようで、病院にもかかっていたが、仕事の休みも取りづらい上に、偏った食生活も続いて胆のうはボロボロ。即全摘となった。

「ちょっと遅れてたら、毒が回って死んでた。」と医者は言ったそうだ。

だから私の入園式の日、父は病院にいた。式の後、10日ぶりに父と病院で再会したのだが、その時の私の様子を、母は保育園の連絡帳に記している。(※ この先の引用は連絡帳によるもの。)

(父のことを)すっかり忘れて、目をそらして他人顔していました。

1歳児の記憶なんてそんなもんだと思うが、父はショックだったらしい。



胆石の手術は成功し、4月の上旬には退院した父だが、6月に再び入院することになった。

C型肝炎の発症。

父方の祖母はC型ウイルスの保持者で、母子感染、夫婦感染があり、祖父も、父もその兄と姉、みんなC型ウイルスを持っていた。

この時は強い黄疸が出て、朝一番に姉が「お父さん、目が黄色いよ」と言ったことで病院へ。即検査入院。

GOP・GTPの値が1000近かったらしい。(正常値は~40程度)

「こんな状態で病院まで歩いてくるなんて、ありえません!近くてもタクシーを使ってください。」と、すぐに車いすに乗せられた。

1週間後に父と再会した私の様子。

(6月13日)
すごくなつかしい人に会ったみたいで、ニコニコしていました。忘れられていなくてお父さんも安心していました。

私の記憶力、半年で成長した。



6月下旬から投薬(インターフェロン)治療が開始した。当時はこの薬がちょうど保険適用になった頃。

(6月29日)
副作用がかなり強く、昨日とは別人で、また歩けなくなり、しばらく大変そうです。

(6月30日)
お父さんは昨日は40度以上の熱で ほとんど死にそーな様子(ホントに)だったのに、今日はもう しっかり生き返っていました。何とも おそろしい薬みたいです。

こうして8月頃までは週末のみ家に戻るが、平日は病院。家でもぐったり寝ているだけという生活が続く。



体の不調は心の不調も招く。父はうつ状態になっていた。

母は「目を離せばいつ飛び降りても不思議じゃなかった」と言う。

(8月24日)
食事中、お父さんに向かって、「オ~イ、おトーターン」と呼ぶのですが、お父さんは下を向いてウーンと うなって ため息。具合のあまり良くない時はいつもこうなので、見ているだけで、こっちまで食欲がなくなりそうです。幸いこの子はあまり感じていませんが。

今に生きる私の良いところがすでに発揮されている。



9月に入ると、少しずつ父も仕事へ行くようになる。

結局この年の末まで、通院による投薬治療は続く。注射での投薬後は、体の不調に直結し、さらに仕事のストレスも重なって家の中では寝込んだり、イライラする日々。

そんな中、12月のはじめ、父方の祖母が亡くなった。C型肝炎ウイルスからの肝臓がんだった。

さらに、年明け。一人になった祖父に会いに行くと、祖父も同じ病気で体調を崩していた。

(1月4日)
お正月は1日と2日、おじいちゃんを元気づけに行くつもりで、みんなで帰省しましたが、そのおじいちゃんが体調を崩していて寝込んでいて、あまり良くない状態。どうもおばあちゃんと同じ病気らしく、また暗~い雰囲気。お父さんはショックを通り越して放心状態。毎日ボーっと ため息ばかりついています。新年早々一体なんなんだ という感じで、何かよくわかりません。

そうして2月中旬に祖父も亡くなった。

年度が変わるころ、少しずつだが平常を取り戻した我が家。

その時、母のお腹の中には新しい命が宿っていた。

そして弟が生まれた時、今度は母の体が壊れた。



今、その時を振り返って思うこと

おそらく、この一年は家の中はバタバタだった。

私の保育園の連絡帳には、母が何とか前向きに考え、その時を乗り越えている姿が見える。

私にはもう当時の記憶はないが、我なりに空気を読んではいたようだ。トマトやヨーグルトといったもので顔を洗ったり、髪を逆立てたり、食べ物で遊ぶという記述が頻繁で、それによって親に手をかけさせると同時に、その場の笑いを作り出していた様子。

9月に父が退院する頃まで、週末に出かけることはほとんどなく、9月ごろから「公園に遊びに行きました」というようなことが書かれ始める。公園より病院が遊び場だったのかもしれない。

保育園には大変お世話になった。

入園当初、父の入院も重なり、「慣らしなしで大丈夫よ」と引き受けて下さった園長先生がいた。

私に熱がある時も、かかりつけ医の先生が「お母さん、この子を保育園に預けなかったら、一緒に病院に行くんでしょ?なら、保育園に預けた方がいいから、登園OK!」ということで、預けられた私を一日中おんぶしていてくれた先生がいた。

なんやかんやで大変な時、励ましの言葉だったり、保育園での私の記録は、母にとって力になっていたのではないかと想像する。

私にとっても、保育園は大切な場所だったに違いない。

私は親になったことがないので、親の気持ちは一つもわからないが、我が家の力となってくれた園に、子どもの立場から感謝している。

今、私は保育士をしているが、もともと保育園で働こうとは思っていなかった。

「小さいころお世話になった恩返しがしたくて」みたいな綺麗な理由は、今もなお、全くない。

ただ、私の根底に生きている何かが、「子ども」というものに対してうごめいていて、「子どもがわかる」と感じることが多いのだ。

記憶はないが、子どものころの感覚や感情といったものは自分の中に生きていて、さらに自分はそこへの強い執着があるようなのだ。

そういったものが、私を「子ども」のいる空間に導いている。

ひょっとしたら、それは「憧れ」という感情かもしれない。



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