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生まれた時、泣かなかった。

よく子どものケンカで、

「やーい!泣いてる!」
-「泣いてないもん!」
「泣いてたし!」
-「泣いたことないもん!」
「1回もないの?」
-「ない!」
「生まれた時は?」
-「・・・。」

みたいのがある。

わたしの子どもの時にも、そんなやり取りがあったが、
わたしは生まれた瞬間に産声を上げなかったので、
「生まれた時も泣かなかった」と自信を持っていた。

「むしろ生まれた時、死んでたもん。」
と言って、周りを黙らせた。

こんなこと、自信を持って言うことではないと、
当時の本人もよく理解していたが、
子どものケンカというのは、変なところに勝ち負けがある。

もちろん、生まれた時の記憶があるわけではなく、
母親から「あんた生まれた時、死んでたんだよ」と聞かされた話。

わたしは生まれる数時間前に、お腹の中でへその緒が部分的に切れ、
生まれた時は仮死状態であった。

『新生児仮死』という、と知ったのは大きくなってからだ。
だから正しくは生きていた。

幸い、お医者さんや看護師さんのおかげで、すぐに息を吹き返した。

わたしの第一声は「おぎゃー」ではなく、「ほにゃっ・・・」だったらしい。

もしかしたら、脳に後遺症が出るかもしれないとも言われていたそうだが、
そのようなことはなく、無事に育った。

子どものころ、この話を聞くたび、
生まれた時から多大な心配をかけてしまったと申し訳なさでいっぱいだった。

今でも思い出す、小学校の国語の教科書に載っていた話がある。
といいつつ、確か小学2年生の時のことで、その話の題名は定かではないのだが、
調べたところ、『おへそって、なあに?』が近そうだ。

赤ちゃんがお母さんのおなかでどのように大きくなり、
どんなに大切にされて生まれてくるか、
という命の尊さを学ぶ内容。

子どもの頃のわたしは、何としてでも人前で泣かないと決めていたのだが、
この話はそんなわたしを脅かした。

感動したのである。
涙を堪えるのに必死で、音読すれば声が震えた。

わたしは自分が生まれた時のことを「申し訳ない」と思っていたのに、
その教科書には、
生まれたことを「ありがとう」と言っていたから。

自分の母親も「ありがとう」と思ったのか・・・?

そう思ったとたんに、目頭がじーんと熱くなった。
自分の尊さに触れた瞬間だったのかもしれない。

自分が生まれて、育っているということに、
そしてそれが決して当たり前ではないのだということを強く感じて、

母親に対して、「ごめんね」とも
「ありがとう」とも言えぬ、
不思議な感情でいっぱいになった。

今思う、
あることが当たり前になってしまうと、
その中の大切なことが見えなくなる。

生きていること。
だれかと一緒にいること。

今を大切に。
今ある自分を大事にする。

余裕がない時ほど、
そんなことを思い返す時間を作ってみたら、
当たり前な幸せをありがたく感じられると思う。








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