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とうふドーナツ -母と私のこと-

私は彼女を母と呼びたい。何が起きても、何かが欠けていても、その関係がいびつなものでも、その人は大切な私の母なのだ。このこじれた関係性に別の俗称がついていても、その呼び方はしたくない。

子供の頃、空が真っ暗になってみんなは家にいるだろう夜時に、母は私を連れて駅前のスーパーに行くことがあった。たまにしかないけれど、定期的に訪れるその時間を好きだったように思う。
母は、もし残っていればほとんど絶対に、お豆腐屋さんが入っている売り場で、”とうふドーナツ” を買ってくれた。
「へへ、とうふドーナツ買ったよ。」
とっておきのいいものを見つけたという風に、少しはにかんで喜びながら見せてくれる。手作りで、細長く伸ばしてところどころポコっと膨らんだ、いびつな形をした薄茶色のお菓子。脂をべとつかせたままそっけなくビニール袋に入れられて、入口をテープでぐるぐると止めてあった。
父は豆腐や大豆を使ったものを毛嫌いしていたので、それは私たちふたりだけのお楽しみと言う場所におさまっていた。
いたずらを考えたみたいに、
「あっ、とうふドーナツ食べようか?」
と楽しそうに聞かれれば、私は毎回精一杯のうれしさと共に
「うん!」
と答えた。
ふたり一緒に、秘密みたいに食べるのだった。毎回ちょっとずつ、時間をかけて、「おいしいね」と言い合いながら。
外側は少しかたく噛み応えがあって、中はまっ白。口の中いっぱいにその白いモソモソとした生地が転がっていく。控えめにほんのりと甘く、豆腐のせいなのか分からないが、なにか懐かしい香りが鼻や口に充満した。それは頭がやわらかくなるような嬉しさで、そぼくな味だ、と思った。


母は私が物心ついた頃にはすでに「普通」ではなかった。
当時は分からなかったが、発達上なのか精神的にか、おそらく両方が合わさったような病気をずっと抱えている。はっきりした名称を使えないのは、病院にかかっていないからだ。診察や治療を受けない代わりに、彼女は社会からひきこもるという道を選んだ。

私が小さい頃、世間が思う母親業をこなそうとてんてこまいで、彼女の状態はとても悪かった。家はゴミ屋敷で、自分の意思だけで外出するのは難しく、スーパーへの買い物も私が促して説得して、手伝いながらひっぱって行った。
暗い家に閉じこもった状態から、壁も天井も照明が厚かましく照らし、音楽や人の声がうるさい空間に入るのは刺激が大きすぎたのだろう。見るべきものが次々と羅列される忙しい場所で、彼女はひとり混乱していた。着くのはきまって閉店間際なので、ほたるのひかりの音楽が流れ始め「はやくはやく」と急かしてくる。
母は視力が悪く、矯正もしていないので、腰を深く曲げて商品のすぐ前に顔をもっていかないとそれが何なのか分からない。慌てながら、棚にびっしり並ぶ商品を端からにらみつけて行き、ひゅんっと次の棚へと駆け寄る。周りを気にせずバタバタと小走りで向かいの棚へ。4、5歳の子供のような動き方、と言えばイメージが近いかもしれない。血相を変えて、狭い通路をせわしなく行ったり来たりする大人の女性の姿は不自然で、そばでびくりと視線を向ける人や、怪訝な表情で眺めている人もいた。

私はついて行こうとがんばってみたが、背の高い棚や商品の山とそこに漂う大人たちで、すぐに母の姿は見えなくなってしまった。スーパーの扉を抜けてしまえば私はひとりぼっちだった。お菓子コーナーに行ってみても母は来ない。居場所がなくさまよっているのだと痛感させられるだけ。実際、ひとりでうろつくにはここはとても危険であると分かった。
結局、レジのところで待っていれば母に会えるのだと理解し、わりとすぐにたどり着いた。スーパーで迷子になって泣きじゃくる子を見るに、当時の私も必死にやったのだろうなと思う。

だが、その ”待っていれば” というのは私の想定した長さの何倍もかかった。母は何にせよ時間がかかる性分で、スーパー内でも迷ってしまい、レジに来るのは最後やそこから何番目という具合。出口に来る頃にはシャッターが半分閉まっていたり、部分的に照明が落とされていたり。とにかく相当に根性のいる待ち方をしなければならなかった。

次から次へと、帰っていく誰かを見送り続ける。もうお客さんはいないんじゃないか。母はひとりで帰ってしまい、私は置いて行かれたのではないだろうかと、毎回考えていた。もう私の感情はさみしさや苛立ち、絶望なんかがわさわさと積もってはじけ飛びそうだった。
だから、母が視界に現れ、
「とうふドーナツあったよ。」
とか、時にぶすっとした顔の私に苛立ちまぎれに放つ、
「とうふドーナツ買ったからいいでしょう。」
とかであっても、そう言葉をつなぐ声が耳に届けば、とてつもなく嬉しくてしょうがなかった。もうしょうがないとしか当時は表現できなかった、溢れかえる、ぬるい感情で埋め尽くされた。泣きそうだと、今なら思うのだろう。
——私はまだ見捨てられていない。
どんなに目新しいおしゃれなオモチャのついたお菓子であっても、それより嬉しいものなんてなかった、そんな気がする。

母は棒状のドーナツをその都度ひとくち大にちぎって手渡してくれた。2つに割って半分こすることもあった。暗い道をゆらゆら歩いて帰りながら、寄り道でもするみたいに、袋から一緒につまみ食いすることもあった。
ひとつのお菓子を食べる時間をそんな風に楽しそうに、やさしく扱うひとに、どうして愛しさを感じないでいられるだろう。母がそこにどれくらいの愛情を込めたのかは分からないが、その食べ物から繋がって捉えられるのは、私にとって十分すぎる安心だった。たとえ、ひとりで食べることになっても、もうそこに含まれた特別な大きさの愛情は失われなかった。記憶したのはずいぶんと前だが、あのときの彼女の声や表情は今でも輪部をぼやかしてよみがえる。

当然、病んでいる母と私の関係は沢山の毒々しい問題を生み、歪んだ性質を帯びていった。彼女や家族が子供をどう扱ったかという記憶をなかったことには出来ないし、未だ納得できないでいるのを許すこともないだろう。
それでも、やはり、自分をのぞき込んでみれば、確かに私は彼女を愛しく大切に想っているのだ。そう思うのも、病的な関係性が影響しているのだろう、と理解はできる。
だが、人の愛情のあらわし方は、その極めてプライベートな領域にいる人にしか分からないものではないかと思ってもいる。不器用で不格好ではあるけれども、私は ”とうふドーナツ” を思い出すだけで脈動するような感情で涙がにじむのだ。

それがどれだけ世間の理想図と離れていても、傷いていても、彼女は私の母親であったし、私たちは親子だった。そこには私たちなりの共鳴し合う愛情のやりとりだってたくさんあったはずで、今だってそうなのだ。
私は、彼女を母と、ずっと大切に想っている自分の母なのだと、そう呼ぶ。

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