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氷点下32度の私たちは|#1 レオの場合


<【前回】#0 北緯43度からの孤独



ジムから寮に帰ってきたその足で、
私は共同キッチンへ向かう。

喉がカラカラ。

クリーム色のドアの上部はガラスになっていて、中の様子を覗くことができた。

真っ暗で誰もいない。



はずだったのに、電気をつけてギョッとした。


台所の隅に、人がぽつんと座っている。


恐ろしいことに、何もしていない。

体育座りで、何を飲むでも食べるでもなく、
キッチンボードの上にただ座っている。

イギリス人のレオはいつも明るい男の子で、イベント事にも積極的に参加していた。スクールカーストの上位3割くらいには入る感じ。

気まずくて"hey"とだけ声をかけると、
小さな声で"hey"と返ってくる。


話したことはあれど、特段仲が良い訳でもない。

それに、彼はなんとなくアジア人のことが苦手そうだった。嫌っているわけではなさそうだが、多分関わり方がよく分からないんだろう。


私は流しの横の冷蔵庫を開け、トマトジュースを取り出した。大学のロゴ入りのマグカップが満たされていく数秒間、彼は身動き一つしない。


入ってきた時は真っ暗だったので、
「…レオ、電気このままにする?」
と訊いてみた。一応。

すると彼は、
『消してもらえる?』
と言うのだ。


こちらから聞いたものの、
人がいるのに電気を消すのは気が引ける。


「…わかった」


律儀に電気を消し扉を閉めたけれど、すぐに思い直して引き返した。

あんな真っ暗な共同キッチンで虚空を見つめているなんて、普通じゃない。


ーガチャ


「レオ〜、何してるの?」

努めて明るく声をかけるけれど、

彼は『べつに…』と言って、
手持ち無沙汰に靴底のゴム部分を剥がしている。

それは、お手本のような『べつに』だった。
もう一声何か聞いて、の『べつに』だ。



「体調、悪いの?」

『君ら、どうかしてる。こんな遠い国で、しかも外国語で過ごしてるなんて』

多分彼の言う「君ら」とは、アジア人全般だろう。


「なんとかね、」


『差別とか、ないの?』と言って、
レオは顔を上げる。


「差別ってどういうのイメージしてるかわからないけど、東京やロンドンより人は親切だよ」カナダは移民の国だし、アジア人への理解もあった。


レオは軽く頷いて、『でも僕はロンドンが恋しい。言葉が分かるのに、甘ったれるなと思うだろ』と言った。



ホームシックか。

言葉なんてちっぽけ・・・・なものだというのは、とてもよく分かる。

英語を話せなくてもカナダここに馴染む人はいるし、
英語を話せても馴染まない人はいる。


「甘ったれるなってのは、正直言うと、ちょっと思ったことはあるよ。」

そのまま喋り続ける。


「イギリスと北米みたいに、ほぼ同じ言語を話す別の大陸の人同士っていう感覚、私には分からないけど…文化が違えば、同じ言葉を話しても共有できないことがあるんじゃないのかなとは思うよ。だから、私が知らない孤独が、レオにもあるってのは理解できる。」


『そう。』
レオは少し驚いて、薄い緑色の目を見開いている。

『君がそんなに喋るなんて、知らなかった。』


体育座りのスニーカーの隣には、ペラペラの食パンがそのまま置いてある。
それはガサガサに渇いて、完全に水分を失っていた。


食パンそれ、食べないの?」

『うーん、いいんだ。食べる?』


「…いや、大丈夫…」

これを食べるか人に聞く悪気のなさに、
急に愛おしさを感じて笑ってしまう。


『夕飯…』とレオが呟くので、
「なんか食べいく?」と尋ねた。

まともにお互いの顔を見るのが始めてだと気づく。


吹雪で数メートル先しか見えないから、遠出はできない。
屋外に設置された巨大な温度計には、氷点下32度と表示されている。


ゴウッと低い音が聞こえた後、息を呑む静寂が広がって、もしも天国があったらこんな感じかもしれないと思った。

ゴフッ、ゴフッ、と雪を踏み締める足音だけが響く。



オレンジ色の街灯に照らされた馴染みのレストランを見つけ、入り口で雪を払っていると、もう、あったかいご飯のことしか考えられない。

レオと私は、ほとんど無言でチキンウィングスを食べ、黄金色のビールを流し込んだ。デートの相手とは食べたくない組み合わせ。

バッファローソースで手をベタベタにして、お互い好き勝手に独り言を言う。

「唐揚げとはまた別の美味しさがあるんだよなあ、これが」私は日本語で呟く。数ヶ月ぶりに発した日本語は、不思議な魅力を持って脳内に響いた。

『相手が知らない言葉で話せるっていいよな。
僕だけ理解できないのは、不公平だろ』レオが目尻を下げて笑う。

その言葉がなんとなく胸にじわ〜っと広がって、
ビールがすごく旨く感じた。


レオが目の前の料理をガツガツ食べる姿をみると、ホッとする。
彼は「ガツガツ」という日本語を妙に気に入って、意味もなくガツガツ、ガツガツと呟いた。


『ねえ』

「ん?」

レオはビールを一気に飲み干すと、
『また、この会しよう』と言った。


平らかな交流は、細々と続けられた。

それで、キッチンで体育座りする彼の姿も、見なくて済むようになった。







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