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匿名劇壇『気持ちいい教育』の劇評を振り返って

以下の劇評は2013年に、当時大学の授業で製作していた舞台芸術の新聞に載せるため、書き下ろしたものです。
監修してくださっていた演劇評論家の先生に第一稿を提出したところ、「もっと厳しく批評しろ。鋭く切り込む勇気を持て!」といった趣旨の発言で煽られて、慌てて改稿した覚えがあります。
それが最後の数行に繋がるのですが(念のため弁明しておくと僕はこんなに偉そうなことは考えておらず、あえてテーマに踏み込まない軽妙な作風に潔さを感じ、心地いいとすら思っていました)、先輩としてある程度は身近な存在だった福谷さんも今となっては遠くに行ってしまったように感じられ、この文章を公開するかはなかなかに悩みました。
しかし、自らの課題を克服し(たぶん)、得意とする武器には磨きをかけ(たぶん)、ますます活躍する彼を応援したいと思うので、ここにその記録を残します。

……と、媚びを売っておきます。

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「気持ちいい演劇」

僕たちはでこぼこしている。たくさんでっぱりがある。いっぱい穴が空いている。この「でこぼこ」を社会という型にはめようとしたとき、さまざまな「摩擦」が発生する。それが、「いじめ」であり、「不登校」であり、「体罰」である。
匿名劇壇第三回本公演『気持ちいい教育』(作・演出:福谷圭祐)の舞台となるのは、極端すぎる生徒たちを隔離するために作られた特別教室「イコライズ」だ。「イコライズ」とは「均一化」である。そう、「でこぼこ」をなくすのだ。
「いじめ」という題材を扱いながらも、遊び心溢れる台詞回しによるユーモラスな掛け合いを重ね進んでいく物語は実に軽快だ。作者は観客を楽しませる術を心得ていて、痒いところに手が届くような作品を作り上げている。巧みに時間軸を操り、張り巡らされた伏線がピリオドに近づくにつれ一気に回収されていく様は圧巻で、とても心地いい。
この物語において着目すべき点は、怪我をして入院している少女といじめられている少年湯浅(佐々木誠)が同じ道を辿っているという事実だ。些細なことがきっかけで自分ではどうしようもない事態に陥り逃げ場を失った彼らは、ただただ今行っている行動を続行するということでしか自分を保てなくなる。終盤、自分はいじめられていたのではなく好かれていたのだと知った湯浅は感情の行き場をなくし、暴力に走る。その途端、「いじめている側」と「いじめられている側」の力関係が逆転する。すべてはコインの表と裏なのだ。時として「愛」は「憎しみ」に変わるし、「被害者」は一瞬にして「加害者」になり得る。
しかし、長年いじめや不登校という問題に対して関心を持ち、そうした子供たちとも関わってきた身からすれば、作者は問題の本質と向き合っていないと言わざるを得ない。彼が常々主張する「ジョークのような作品をつくる」という意図は理解できる。だがそれでも、時間を遡ってやり直すことを感じさせる結末はあまりに安直ではないか。
このような社会問題を扱う時、作者の覚悟が問われる。この年代の作家としては申し分ない力量を感じさせるだけに、今後どのような姿勢で作品をつくっていくかという点に期待したい。

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と、ここまできて思い出したのだけど、僕は彼の作風に心地よさを感じながらも、いつもその「優等生ぶり」に「もっと思いっきりやれよ!」と歯がゆい思いをしていたのだった。
僕は匿名劇壇の作品の中でも、とくに旗揚げ公演の『HYBRID ITEM』が好きだし、福谷さん本人は評価していないであろう(ごめん、わからない。テキトー言ってます)『PUNK HOLIDAY』も、その姿勢はめちゃくちゃ好きだった。
もちろん、思い出補正というか、「俺はこのバンドをデビューしたてから知っているぜ」みたいなファン心理(?)込みなのだと思う。
でもいま振り返ると、あの頃のいわゆる「表現の初期衝動」のようなものが詰まった作品たちにやたらと共感して、順調にプロの階段をのぼる彼の歩みを正面から応援できなかった僕は、作家として子供だったんだなぁと反省するばかりである。

この先に言葉を連ねるとくだらない自分語りになってしまいそうなので、それはしないけども、こうやって改めて過去と向き合う機会を与えてくれた先輩、そして新聞づくりを一緒にがんばった同期たちや指導してくださった先生に感謝します。
叶うなら、いつか僕も福谷さんの立つ場所に追いついて、大学にいたときにはできなかったいろいろな話をしたいなと思います。

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