見出し画像

すべてが自分のせいであることの気楽さ

素材は、そして道具は、静かに、沈黙の内に製作者の前に置かれている。

たとえば木を削るとき、それは私に向かって声高に何かを主張してくることはない。
木を削りそこねるとき、それを曲げそこねて割ってしまうとき、その木に向かって非難する私のことばは、そのまま自分に跳ね返ってくることになる。
木は何も言わない。ただ、揺らぐことのない自らの個性を宿して、私に対して佇んでいる。
木をうまく扱えないことは、全て製作する者にその責任が帰せられる。

同じように道具もまた、製作者の前で、黙して自身が使われるのを待っている。
ギター作りの修業を始めたばかりのころ、割れ止めという部材をかまぼこ型に丸く成形するという至極簡単な作業を任されたことがあった。それは、逆かまぼこ型の木の台木にサンドペーパーを貼った道具を使って行うのだが、私がその道具を使って研磨した部材はことごとく、必要のないところまで削れて傷ができてしまっていた。
しかしその時の私は、それを自分の未熟さではなく、道具の方の不完全さのせいなのだと、そう本気で思っていた。
ある目的のために作られた道具とは、それさえ使えばその目的を確実に達成できるものとして作られているのだと、その頃の私は考えていた節がある。
もしその道具によって思う結果が生み出せないのなら、それは使い手ではなく道具の方にこそ原因があるのだと。
けれどいつからか、それは道具をうまく使いこなすことのできていない自分の未熟さのせいでしかないのだ、ということに気付いたのは、私にとってのモノ作りにおける大切な学びの一つだったと思う。

完璧な道具など存在しない。道具はその道具のことを能く知る使い手によってはじめて、目的に適った道具となる。
道具ははじめから製作者の前にそのものとして置かれていたのであって、別に使っている途中で何か別のものに変化したりはしない。ある道具を使ってへまをしたとしたら、それは道具のせいではなく、その道具をきちんと知ることのできなかった使い手のせいでしかない。

このように、素材も道具も、沈黙の内に自らの存在、その個性を、製作する者に向かってはじめから開いている。
失敗は、製作者の見る目のなさに起因する。


それにしても、全てが自分のせいでしかないなどというのは、あまりにも厳しく辛いことではないのかと、そう思う人もいるかもしれない。 

けれど、失敗を誰かのせいにしないで済むということは、ある意味でけっこうさっぱりとして気楽なものでもある。

変わるべきが相手ではなく、自分でしかないのなら、じくじくと続く相手への怒りや恨みみたいなものが生じることもない。
ただ不甲斐ない自分があり、沈黙の中にある相手に向かって、自らの対し方を変えていくことしか、できることはない。
選択肢がないということは、悩む必要がないということでもあり、それこそただやるべきこと(自分を変えていくこと)をやるしかないのである。

過ちが、他の誰にも奪われることなく、自らがそのすべてを引き受けるべきものとして守られているということーーそれはモノ作りという営みが本来持っている尊さや健やかさのようなものの一つのあかしではないかと感じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?