ルカ福音書 22:24〜30 「教会へ行く意味を見失いかけた時には」
まず、タイトルの聖書箇所を祈りながら読みましょう。
それから、下のコラムを読みましょう。
最後に、ここから発見したことや教えられたことを感謝して祈りましょう
議論が勃発した理由
「誰が一番偉いのだろうか」。過越の食事の最中に、弟子たちの間で議論が巻き起こりました(ルカ22・24)。ついさっき、裏切り者がいるとイエスが予告した直後にです。たった今、イエスから新しい戒めをいただいて「互いに愛し合いなさい」と言われたばかりなのにです(ヨハ13・34〜35)。
なぜ、そのような厳粛な過越の食事の場面で、弟子たちはそんな議論をしたのでしょうか。実は彼らは、イエスが今すぐにでも強い政治的なリーダーとして、武力でローマを打ち倒し王国を設立すると思い込んでいたのです。みな焦りながらも御国での自分のポジションを心配しました。しかし、天の父の計画は全く違うものでした。この数時間後には、イエスは十字架につけられることのなっていたのです。
イエスは、彼らの議論に対して「あなたがたの間で一番偉い人は、仕える者になりなさい」と教えました(ルカ13・26)。そして、イエス自身はすでにその食卓で模範を示していました。食事の始まりにイエスは、上着を脱いで腰に手拭いを下げ、しもべの姿となって弟子たちの足を洗ったのです。通常、客人の足を洗うのは、しもべたちの中でも一番下っ端の仕事でした。そして、苦難のしもべとして十字架へ歩まれました。イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。
あなたの奉仕とは
あなたは、教会でどのような奉仕をしていますか。奉仕は教会の割り当てられた仕事をボランティアでする、という以上の霊的な深い真理があります。奉仕とは、お互いに仕え合うことで「互いに愛し合いなさい」というイエスの命令に従うことです(1ヨハ手紙3・23)。
私たちが互いに愛し合うときに初めて、神の「最も重要な掟」を守ることができます。神を愛することと、隣人を愛することは、二つで一体です。あなたが、神の家族と互いに仕え合うとき、本当の意味で神への愛を表すことができます。
時々、「わたしはキリストにだけ従うから、教会は必要ない」という人がいます。その場合、イエスの「互いに愛し合いなさい」との命令に従うことは不可能です。神はあなたのために、神の家族である教会を備えてくださっているのです。
教会とは主イエスを愛する人々の群れであり、キリストの体です。教会の頭はイエス・キリストであり、教会はあなたのものではなく主イエスのものです。過越の食事で「新しい戒め」を与えてイエスは、「隣人を愛しなさい」を最高レベルまでグレードアップさせました。それはイエスが「わたしがあなたを愛したように」というフレーズを付け加えたからです。
もちろん、イエスは十字架で命を捧げるほどに愛したのですが、それを聞くと、私たちには不可能だとひどく躊躇していまします。しかし、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」(ローマ5・5)のですから、主の恵みによってそれが可能とされています。
それでも約束された最高の報酬
今、過越の食事の席で、弟子たちは「御国で誰が一番偉いか」を議論しています。しかし、まもなく彼らはイエスを捨てて逃げようとします。リーダーのペテロは、三度イエスを知らないと否定することになっています。
しかしそれでも、イエスは彼らに御国での最高の報酬を約束されました。「あなたがたは、わたしの国で(…)王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治める」。たった十二名の間で誰が一番かという論を、遥かに超越した最高の報酬が約束されました。イエスは彼らの一時的なつまずきや失敗には目を留めてはいませんでした。イエスと共に試練を耐え忍んできた弟子たちが、どれほど主を愛しているか、その心を知っていたからです。
あなたの王冠を投げ捨てよ
あなたは、イエスに従うことでどのような試練を忍耐してきましたか。イエスはすべてを見ておられ、あなたのイエスを愛する心を知っておられます。御国ではあなたの願望を遥かに凌ぐ最高の報酬が与えられます。この地上では、人と比べることで得ていたアイデンティティー、地位、名誉、財産、学歴、名声、ステイタスは、御国では何の価値もありません。二十四人の長老たちが王冠を投げ捨てて、王なるイエスに礼拝するように(黙4・10)。
あなたは何に一番関心を持っていますか。弟子たちの関心ごとは「誰が一番か」でした。しかし今、あなたが最も関心を持つべきは、「誰が王なのか」なのです。そうです。イエスはあなたの人生の王として君臨しておられる。それだけで、あなたは満ち満ちた満足で、とこしえに満たされるのです。
「イエス様、わたしのこの世の王冠を投げ捨てます。あなたこそがわたしの唯一の宝物です」。