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本当にその人を好きになるということ


相手に裏切られてショックを受ける、荒れ狂う。
信じてたのに!と叫びたくなる。

そんな経験はありますか?
私は…、ありましたね。分かりやすいのが恋愛ですけど。


まだ10代後半の頃、お互い想い合っていると思っていた人からウチに電話がかかってきた。この時代、お互い話す手段は直接会うか自宅の固定電話にかけるしかない時代。学生の長期休みの日中に、ベランダで母が洗濯物を取り込んでいる姿を横目に、声の音量を落としながら深刻な話が始まってしまった。


「りなのことは好きなんだよ。本当に。実はもう一人好きな子がいてね。その子と付き合いたいから…。でも本当に二人とも好きなんだよ」


ワケワカメである。

言葉通りにしか受け止められなかった10代の私は、彼が発した言葉の本意をきちんと見抜けてはいなかったけれど、ワケワカメ過ぎて心の中ではショックと怒りが入り混じっていた。

数メートル先には洗濯物を抱えた母がいる。泣き叫ぶわけにも取り乱すわけにもいかず、押し殺した低音ボイスで言った。

「あのね。それってさ、二人とも好きとは言わないんだよ。私よりもその子の方が好きって言うんだよ」


この男、私を振るのは2回目だった。1度目は高校時代に付き合っていた時に「りなの出来過ぎた人間性についていけない」と言い別れを切り出してきた。

同じクラスだったのもあり、私の方がダントツに成績が良く、どんな男子生徒とも気さくに話してしまう私の姿を間近で目にしてしまう環境だったので、嫉妬と男のプライドとやらで耐えられなくなったらしい。


別れてもお互いにずっと引きずり、晴れて現役で大学入学できた頃からまた急接近していた。そんな彼と復縁間近か?と期待していた矢先に「伝えたいことがある」とこれまた期待させるテーマで電話をしてきたもんだから、受けたショックは大きかった。

これが私が初めて期待を裏切られてガツンとやられた話となる。もちろんこの後の人生においても、恋愛やら結婚生活やらで同様な経験はしてきているが、今回は初ガツンのエピソードのみの披露にとどめておく。


こうなると新しく恋が始まったとしても、これらの経験が「また同じことが起きるのではないか」という怖れを呼ぶ。当然悪い事ばかりではなかったはずで受け取った良いものもたくさんあったけれど、人間というものは受けたショックや衝撃に対する記憶と恐怖のほうが印象深く刻み込まれるようだ。



しかし先日、ふと思ったことがある。

ショックを受けたり裏切られたと感じたりって、本当に相手に完全な否があったのか?と。

相手はただ、その人という人間であり続けただけであって、私の方が相手に自分の望むような人間であってほしいと、自分の希望で上からすっぽりと本来の彼を覆っていたのではないだろうか?
つまり、好きだ好きだと思っていたけれど、実際好きだったのはその人そのものではなく、自分の希望するその人像でしかなかった。自分の希望するその人像から大きく外れている事実を知った時に、勝手に「裏切られた!ショック!」と騒いでいただけじゃないだろうかと。


本来のその人
 と 自分の希望するその人像
ここにギャップが生じるから傷つくだけ。


人を好きになるって、多くの場合、言ってしまえば虚像を好きになっている説はないんだろうか。なんて考えてみた。

本来のその人を好きになるって、案外難しいものなのかもしれない。
その人に自分の希望を乗せず、ありのままの相手を受け入れて、好きになる。


あ。これって、恋じゃなくて愛になるのか。


本来、誰を好きになろうが相手も自由だ。そしてステディな関係であるはずの相手の気持ちが冷めようが、それを責めたくなっても責める権利なんぞこちらにはないんだな。悲しむことはあっても。

私のことを好きでいなきゃ許さない、と言っているようなものだもの。

自分の希望するパートナー像で相手を覆ってしまわない。


いまだに好きになる相手に自分の希望像を乗せてしまっている己を自覚した。


愛までの道のりは、まだまだ遠い…。


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