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善人でありたいだけの自分を認めざるを得ず。

きっかけはポツンと置かれたハンドバッグ


今日、外出帰りの電車に乗り込んだ直後。

目に入ってきたのは、座席の上にポンっと置かれた女性モノのハンドバッグ。
まるで”席取り”をしているかのように、ぽつんと一人分空いた座席の真ん中に置かれていた。

忘れ物にしては丁寧な置き方でもあるし、だいたいコレを座席に忘れて下車しますかね…?(床に落っこちてるわけでもないし…)


本当に席取りしてるのかも?と思い、少し様子を見てみた。
周りの乗車客のみなさんも、怪訝な表情でハンドバッグに目線を送っている。

次の駅に到着する頃になっても、バッグの持ち主らしき人は現れない。


(あ。忘れものなんだな。。。)
私はそう判断した。

周りの人達も同じ判断だったんだろう。その座席の前に立っていた人が、自分が座るためヒョイっとそのバッグを手に取り網棚に上げた。

その人が座った途端に、横一列に空きなく人間が並んで座っている、一見違和感のない景色に変わった。


私の中の善人基準


連絡を受けた駅員さんが途中の駅で車内に入ってくるのかと思いきや、誰も来ずバッグは網棚の上に置かれたまま。

ガタンゴトンと電車は進み、次の駅も、その次の駅でも、駅員さんは車内に入ってこない。


さて。どうするか…?

私が降車する際に持って出て、その駅の駅員さんに渡そうか。
きっと忘れた彼女は焦ってるだろうし困ってる。
駅員さんが車内に捜索に入るよりは、私が持ち出して報告した方が早かろう。


(それがいいよね?)
頭の中で、上の人(高次元の存在)に確認してみた。


残念ながら私は善人ではなかった


返ってきた答えは意外なものだった。


『その必要はない』


(え?なんで?忘れた人はきっと困ってるよ?)


『こういった状況ではこういう行動をすべき、それが道徳的だ、という固定観念からそう思ってるでしょ?』

一発ガツンっと顔面パンチを喰らったかのようなご指摘である。


『自分が”善い人”でありたいがために、その行動をしようとしてないか?』


グワハッ!
血を吐きそうな痛い指摘が続いた。 


『仮にスルーして降車したら、罪悪感を感じるはずだ』


う、うん…。それは間違いない。
それがイヤで、自分が自分の事を”非情な人間”と認定してしまうのがイヤで、困っているであろう人を手助けしようとしている自分がいた。

こんなに大勢の同じ立場の乗客がいる中で、その中の一人である私が罪悪感を背負いこもうとしている。
こういった状況下で”善人”としてすべき行動を選択しようとしている。それを選択しなければ、すべき行動をしなかった罪悪感を感じてしまうから。


私は、ただ自分が善人でいたいだけだ。

その行動をして徳を積んだつもりになること。
「今日良いことをした私」を感じて気持ち良くいること。

浅はかだな~と自分で思いながらも、そうであったとしても私のとる行動が困った人の手助けに少しでもなるなら実行した方がいいんじゃないか?と相変わらず葛藤していた。

つべこべ考えずにサッと駅員さんに手渡せばいいだけなのに。


『何をしたら善人、という法則はない。それは自分で作ったものに過ぎない。というよりも、世間的に善人に値するか?に焦点が当たっている』


…ぐうの音も出ない。


自分の中で設定した善人を外れてみる


取るべき行動よりも、私の持っている固定観念を省みる必要性に迫られた。


善良であるべき
このような行動を取る人が善人という決めつけ

行動が善悪を決めるのか?
行動を起こす動機、心の状態はどうなのか?
そもそも善悪とは何なのか?


誰かがどういった理由でか知らないが置いていったハンドバッグ。

そのバッグひとつに翻弄され思考が深みにはまってしまっている状況に面倒臭さを感じ、降車駅で駅員にバッグを手渡してしまおうと思った瞬間、

『そのまま行け』と降ってきた。
何度か確認したけど、『何もせずに降車』と返ってきた。

それが私の本心だったんだろう。



自分の中で設定した”善人”を外れる
この行動が今回必要だったのかもしれない。
固定観念に囚われていると知る必要があったのかもしれない。

そう考えること自体、言い訳チックに思えて心がザワつくのも事実。



様々な角度から見ると、解釈は何通りも出てきそうだ。
その中のどれが正解なのかも正直分からない。

おそらく今回私が問われたのは、自分の善良や正解の基準が本当に自分で納得して採用したものなのか?世間の基準に合わせていないか?ということなんだろうな。


あのハンドバッグは無事に持ち主さんの元に帰っただろうかと、うっすらとした罪悪感と未練を残しつつ…。



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