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ただ一つの勇気

ここ数年、プールの中で息を潜めるようにしていた私が、はじめて自分の足で立った。正確には、スーパーポジティブな人の肩を借りながら(というかほぼ肩車されながら、)立った気になっている。生後2ヶ月の赤ちゃんにゲップをさせるように、繰り返し、繰り返し背中を叩かれ続けて、いささか力は強く、赤ちゃんだったら確実に死ぬだろう雑さが、今の私にはちょうど良かった。

休日。その人の肩から降りて、自分のベッドの端につかまってみると、木が少しだけ軋んだ。自分にも、重さがあったんだとほっとした。しばらく直立している間に、かかとを蚊に刺されていた。大して血なんてないはずなのに、人だと認められたみたいで、その傷口を優しく撫でた。ふと窓の外を見ると、歩道の脇に、全身を掻きむしっている女の子がいた。綺麗なブランドのロングヘアに、遠目にも伝わる長い睫毛。何十箇所も蚊に刺されているその人は、私よりも血が通っているんだと思った。人間らしさで、負け。羨ましくて仕方がなかった。階段を降りて行って彼女に声をかけた。振り返った彼女を、私は光の当たらないマンションのガレージに引きずりこんで、鍵をかけて閉じ込めた。公共の電波を遮断された彼女は、しばらく放置されている間に、ガレージに置かれた業務用の特大ハサミで髪を切り、筆に仕立てた。所持していたアイシャドウパレットを車のオイルに浸して絵の具に変えた。ガレージを開けた時、コンクリート壁一面がアート作品になっているのを目にした。心音の高まりが、身体に乗り移る。いたく興奮した。

暗闇の中、壁に向かって絵筆を振りかざしていた彼女は、怯えるようにこちらを振り返った。目を見張るほどに、透明な肌にショートカットがよく似合っていた。大きな黒目に捉えられる。思わず、私は彼女に話しかけていた。

「好きな言葉って、なに。」

彼女はその場所から動かない。しばらく間が空いたのち、彼女はぽつりと呟いた。

「ともだちになろう。」

初夏の風に、木の揺れる音が聞こえる。

これまで、そうやって生きてきたの?

そう聞くと、彼女はうん、とショートヘアの先を揺らす。

「動きたいの。」
彼女にいま、守られたんだと思った。

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