本当の意味で「自分より尊い存在なんてこの世にない」と気付くとき
残りの人生、答え合わせをして間違っていたって構わない。
「発達課題」優等生
29歳、唐突に自分の人生概要を振り返る。
幼いころは兄弟や友人と比較され続けながら劣等感と戦い、16歳で初めて「自分は何者か」を模索して苦しみ、18歳からしばらくは人との深い繋がりを求め、23歳になるころ、生活を安定させるための基盤を決めてそれを維持するため努力した。
そして壮年期、つまり働き盛りの29歳である今、自分がしっくり来るような(=自分にとって嘘も違和感もない)社会とのつながり方を発見し、周りの人々の幸せを心の底から願った。
概要だけ書くと実にさらりとしたその内容でも、その都度体力と思考を消耗し、ヘトヘトになりながら解決策を見出してきた。
だから「発達課題」というものの存在を初めて知ったとき、妙な納得と共に、急に悲しさがこみ上げてきてしまった。
だって、自分はやはり「一般」の枠を出ないのだ。
もっと言うと、私はもっぱら、世に言う「発達課題」から逸れることなく年齢通りにそれにぶつかり、そして使い古されたしかるべき手法で、都度それを乗り越えてきただけに過ぎなかった。
自分が「成長した」と実感していたことは、自分が生まれる遥か前から一般論として、この世に存在していたのだった。
逆襲
ただ、悲しんでばかりではもったいない。
その事実を知ることができたのであれば、この先起こりうる発達課題について、先回りして考えて備えればいい。予習である。
次に起こりうる発達課題は「老年期」。
私が「死」の肩を叩いた瞬間から、私は「これまでの私のあり方で良かったか」を考え、自分のためだけに生きようとする。らしい。
でもやっぱり、その感覚はイマイチまだ分からない。
「自分のためだけに生きようとする」。
一周回ってワガママになるってことなのかしら。
その感覚を理解するにあたって、あえて瀕死の状態に身を置くこと、それこそ自分の体をわざと壊したり事故に遭うことをしてみたりする訳には決していかない。(というかしたくない)
他の人に聞こうにも、その人と私は違う人間なのだから、私にフィットするとは限らない。(もちろん参考にはする)
しばらく考えた後、シンプルに「現状の発達状態のまま生涯を終えたとしたら」を想像してみることにした。
現状はこんな感じだ。
実際にやりたいことが実行できたとして、この状態のまま歳を重ねてみよう。
30代。誰にやらされるでもない、自分が決めたそのことで人から感謝される。今と同じく、おそらく気持ちがいいだろう。
40代50代。自分が影響を与えたい対象に対して、少しのお節介と一緒に、救いたい相手をただ救っていく。これも感謝があるかもしれないけど、感謝がなくったって、私は無条件にただ愛や世話を与えるのだろう。
60代。私の体もそろそろ動かなくなってくる。人のためにしていたことが、体力的な問題で次第に少なくなっていく。少ない年金を受給しながら、今度は何十年ぶりに改めて「与えてもらう立場」になる。
ああ、そうか。きっとそうだ。
その立場になった時、私の性格であれば、改めてこう考えるかもしれない。
「私は今こうして与えてもらえるだけの人生を、きちんと送れてきたのだろうか?」
人のために尽くしてきた。
多少傲慢にも、社会が良くなるように尽くしてきた。
周りの人が幸せであること。それが私の願いだった。それが私の幸せだった。
本当に?
もし人のことだけを考え続けて、「人の幸せが私の幸せ」だと願って、その状態で死んだら。
私は死ぬときに「上出来だったよ」って言えるのかしら。
「いい人生だった」と、胸を張って言えるのかしら。
違う。
きっと少しだけ、「自分のこと大事にしているようで、後回しだったな」って後悔する。「いい人生だった」と自分を肯定する傍らで、脳みその中5ミリくらいは、「自分のためのことは、どれくらいできたのかな」って後悔する。
「人のために存在することが自分の幸せに繋がる」と信じて疑わない今の私には、決して理解できない感覚だ。
それなら。
私は、「私の」人生の中で、誰の幸せを一番に願うべきだった?
誰のことを、誰の気持ちを、一番尊重すべきだった?
私だね。間違いなく私だね。
だって、私にとって、私以上に尊い存在なんて、この世に存在しないんだから。
そういうことなのかな
老年期のことを「一周回ってワガママになる時期なのか?」って考えてしまっていたけど、私の場合多分、そうではない。
きっと、自分の人生を振り返ったときに、自分のことを一番に考えて、自分の幸せを一番に願って行動できたかどうかを、確かめる時期なんだ。
ああ良かった。
与えるだけではダメだと言うことに、今気付くことができて。
この考えが自分にとって「そう」なのか違うのかは、これからの経験の中で答え合わせをしていくのだろう。
でも、間違っていたって構わない。
今の私がそのことを「知っている」だけでも十分、今の私にとっては価値がある。