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[りんごの転がり人生]3:地上に出てお日様を浴びた復活編(~37)

<ここまでの記事>
以下の順にお読みいただくと[波瀾万丈ストーリー]がよくわかります。
はじめに[りんごの転がり人生]波瀾万丈を綴ります
7話_1夢を見つけて、夢を追いかける挑戦編[ミニ四駆]
1話順風満杯のバブル編「挫折を知らずに育ったりんごの青春」
2話前半幸せの絶頂から転がり落ちた潜伏編(前半)
2話後半幸せの絶頂から転がり落ちた潜伏編(後半)


離婚を決意! 実家に戻り戸籍も変えて再出発。
「バツイチ」のシールを貼られるのか!と戦々恐々としていたけれど、思いの外風当たりは良かった。臨床検査技師として働きながら、インターネットとパソコンの知識&経験を蓄積した。


実家に出戻ったバツイチ

県北の病院での仕事をゲットした私は、息子と一緒に生まれ故郷に帰った。
息子と一緒に転がりこんだのは自分の生まれ育った実家で、文字通りの「出戻り」となったのだ。自分が生まれて高校入学まで住んだ土地なので、当然のことだけれど隣近所や地域には知った顔も多かったし同級生も何人か地元に残っていて、私の息子と同年代(同い年)の子供がいる状況だった。
そのことは勿論心強かったのだけれど、反面出戻りの後めたさを感じていたことも事実だ。今より30年ほど前なのでまだ「結婚して子供を作って添い遂げる」ことを良しとする風潮は強く。「シンママ」という言葉もなく、「片親」といったマイナスイメージの言葉が先行していた気がする。

ただ[バツイチ]という言葉もう一般的になっていたので、自分もとうとうこのレッテルを貼られるのかと覚悟を決めていた。ただ屁理屈ではあるが、離婚した際に息子との新しい籍を作ったのでいわゆる自分の戸籍にはバツはつかない。
(*もっと正確に言うと現在は戸籍はデジタル化され「×=バツ」を書いて名前を消されることはなく「除籍」という言葉が記載される。
女性の場合は、結婚して親の籍を出たときに親の籍に「除籍」が記載される。そのまま一人で戻れば親の戸籍に再度記載されることになるのだが、私の場合は裁判をした際に息子の親権獲得、息子の氏の変更の許可など諸々の権利を得て、息子と二人で新しい籍を作ることにした。

戸籍作成には色々な制約(*息子は私の親の籍には入れないなど)があるが、反面では案外自由な部分もあることが判明した。具体的には住所も苗字も自由に選べる!と言うことで私は自分の好きなように戸籍を作った(^^)。住所は気運も見かけも良い七番地の実家の住所を採用、苗字は旧漢字から新漢字に変更した旧姓を名乗ることにした。
余談だが苗字を旧姓に戻したところ、こっちの方がかっこいいと多くの好評価をいただいた(^▽^)/

結婚もそうだけれど、離婚すると世の中のいろんなこと(仕組みや制度)が良くわかる。

まあ、それはさておき。


正職員の臨床検査技師として就職

家から車で40分ほどの県北のそこそこ大きな病院の正職員として採用された私は息子を地元の保育園に預けて働き始めた。

病院での職務は「臨床検査技師」。この響きもなんとなく聞こえがよかったようで近所のおばちゃんや親戚からは一様に「いいね〜」「よかったね〜」の賞賛を浴びた。離婚して出戻るのはそれなりに風当りが冷たいかしら(影でコソコソ言われるイメージ)と案じていた私の心配は吹き飛んだ。

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後(のち)に息子が通うことになった小学校は、過疎で複式寸前。息子の同級生は10人だったが、なんとその中に私を含め同じような境遇の(子供を連れて出戻った)母子が3組もいた!こういうご時世なのか?とちょっと驚いた次第だ。
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お固い病院勤務の正職員でおまけに国家資格を持つ職種に就いた私は「手に職があるのはいいね~」と羨ましがられ「離婚」「一人親」「バツイチ」など、心配していた負のイメージを払拭して明るささえまとったシングルの身となったのだ。

開き直れば独身時代のように結婚適齢期を気にしなくてもいい、再婚してもしなくても世間からとやかくは言われない、自由な境遇が心地よかった。

その年の夏にいままでお付き合いのあった人達に一応の切りをつけようと出した暑中見舞は「高原の花畑で息子と撮った写真」を使ったためか、「天国のよう」「離婚しましたの文字が霞む」と多くの反響と暖かいエールをいただいた。
その夏は秋近くまでずっとハガキや手紙の返信、電話の連絡が途切れることがなく、夫との友人知人、夫の親戚さえも私の住所録にはそのまま残ったのだ(ありがたいことにいまだに年賀状のやり取りが続くご縁は多い)。

中にはこの葉書を「元気が出る」と冷蔵庫に貼って毎日眺めている友達もいたほどだった。


思考は現実化するを体感

そんなこんなで田舎暮らしはとても順調だった。両親が楽しみにあれこれ育てている畑ではいつも季節の野菜が賑やかだった。息子と一緒に蛙やダンゴムシと戯れたりもした。

いちご畑で採れたていちごを頬ばっているとき、ふと
「あ!この光景、私がずっと思い描いていたシーンだ」と気がついた。
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息子を自然の中で育てたい。
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いつの頃がそんな風に願いイメージしていた光景が現実となっていたのだ。

思わぬ展開で

思い描いた願いは叶った!

この頃は、まだ「思い描いた光景が現実になる」という言葉をそれほど意識はしていなかったのだけれど、「こんなこともあるのか〜」、「思いを叶えるためにこんな方法があったのか〜」と、神様の選んだ秘策に驚いた。
「神様」という存在を信じていたわけではないけれど、なにか大きな力のおかげを感じたことは確かだった。

無くしたものは多くあるが、思い描いていた光景が現実になったことに間違いはなかったし、そのことを認識できたことが何よりの収穫だと思えた。

私はこの時から、少しづつ。
思考は現実化する」この言葉を意識し始めるようになる。


溢れる自然の中での経験は息子と私の宝となった


近所には息子と同年代の遊び仲間も多く、ゲーム三昧になる日もあれば、外で一日中走り回る日もある。木登りをしたり、河原で魚をとったりの日常が見ている私の気持ちも豊かにしてくれた。

溢れる自然はたくさんの感動をもたらしてくれた。
無数の蛍が飛び交う河原を指で蛍の光をツンツンつつきながら散歩する。そんな光景は今でも心に残って思い出される。


身軽だった私達は誘いやすかったのかもしれないが、職場仲間や友人から色々なイベントによく誘われ恵まれた環境を満喫しながら、あらゆるレジャーを楽しんだ。

夏は、日本海でヨットに乗って大海原の波を満喫したり、瀬戸内海で釣り船に乗せてもらってアジ釣りをしたり。山のキャンプに誘われて長ーい竹の筒でそうめん流しを楽しんだり。息子の夏休みのカレンダ―はとてもカラフルだった。

部落のお花見ではBBQをほおばり、
近所のお宮の秋まつりではお神輿を担いだ。

冬は病院の仲間とスキー三昧。肩車は流石に無理だけど独身時代に磨いた私のスキーの腕前は健在だったので、息子を自分のスキーの上に乗せて抱きかかえながら華麗に滑って降りていた、まるで「僕が滑っているみたいだね〜」「タイタニックだよ!」とはしゃいでくれたのが嬉しかった。



MacとWindows、インターネットとの出会い

この期間の大きな収穫は、Mac(マッキントッシュ)とWindowsを手に入れたこと、そしてインターネットとの出会いだった。

時はWindows95の恩恵でパソコンバブル期、猫も杓子もパソコンを購入して、マウスをカチカチ言わせていたのだ。我が家も例に漏れず、父にねだられキャンビーという名のNEC機をローンで買い、病院に出入りしていた小さなプロバイダーと契約してダイヤルアップ接続でインターネットを繋いだ。東京に住む従兄弟が師匠役になってくれて夜な夜なテレホー代を利用して交信を続けながら、HPの作成方法やコミュニティの参加などネットの基礎を教えてもらうことができたのだ。
また、従兄弟から5300という名のMacノートを譲り受けた私は、WindowsとMacの両方を行ったり来たりしながらパソコンの使い方を覚えて行くことになったのだが、当時WindowsとMacはまるで別世界の産物だった。私はちょうど両親の国籍が違う環境で育つ子供のように、いわゆるバイリンガル状態で両方の使い方をマスターすることができたし、お互いのデーター移行についても詳しくなっていくことになる。

携帯電話が登場し、Macに専用モデムを接続して携帯を介してモバイル(インターネット接続)ができる環境も整えた。リアルな生活環境はめちゃ田舎だったのだが、買い物は秋葉原の格安ショップを巡り、当時のコミュニケーションツールで顔も年齢もわからない友達が全国にできた。

世界中のどこにでも手が届く
そんな夢のような世界がネットの向こうには見えたのだ。


リアルの世界でもパソコン(Mac)の知識は大いに私を助けてくれた。当時医療の現場では画像処理に強いMacの利用が主流だったので、就職した病院でも院長が新しいMacが販売される度に購入し、各世代のMacが病院内に出回っていた。私は看護婦さんや事務員さんにMacの使い方を教える先生役を引き受けることになった。
 IllustratorやPhotoshop、クラリスワークスをはじめとするMac系のソフトをマスターし。病院のデーター管理システムの作成にも携わっていたので、データーベース構築の知識や技術を磨くこともできた。

これらの経験とこの期間に身に着けたパソコンとインターネットの知識が、この後私が白衣を脱いで外海に漕ぎ出すための大きな力となっていく。


父の病気

充実した日々が流れていた。
このままここの暮らしを続けて息子を大学まで行かせることができれば、それはそれでいいとぼんやり想像していた。

しかし、運命はまたしても私に試練を突きつけた。

父の病気が発覚、肝臓癌だった。いわゆる戦後の集団接種が原因とおもわれるC型肝炎からの肝炎&肝硬変の発症。父のウィルスは頼みのインターフェロンが効かないタイプと判明した。

充分な医学の知識があった私にとって、そこから先のストーリーは容易に想像ができた。それはどう頑張っても明るくない未来にしかならない結末だった。

父は医学の援助をあきらめ、親戚の薬剤師さんを頼った。いわゆる東洋医学(漢方や気の世界)での治療法にすがった。同時にその薬剤師さんが勧める宗教も受け入れ家には祭壇が飾られた。(今で言う、霊感商法とかの餌食にはならなかったことが唯一の救いだったと思う、高額のお布施や貢物への寄付等で家計を蝕まれるようなことにはならなかったから)

私も父の行動に反対はしなかった。

自分の持つ医学の知識で描く未来では、どうしようもできない末路になることが判っていたからだ。「もしかしたら」の奇跡に期待をかけていたのかもしれない。

しかし、現実は厳しく無情だった。病院の治療から離れた間、漢方も神頼みも残念ながら病魔の手を拒む手段にはならず、癌細胞は父の体を蝕んでいった。5年経った頃、再度病院を訪れた父の肝臓はもう手術では手の施せない状況になっていた。そこからは潔く医学の力を借りることになったが、地元の病院では治療の力がなく、岡山市内のそれなりの対応ができる病院に入院することが余儀なくされた。
父の入院には母も付き添う必要があり、私は息子の面倒を見てくれる手を失った。やむなく病院に事情を話し、1ヶ月の有給をもらい急場をしのぐ。

その後、父の入院は長期に及んだので、東京で叔父の家に同居していた祖母(父の母)を呼び戻して祖母に息子の世話をお願いすることになり、私は病院勤務に復帰した。


父の病気が発覚したころから、我が家の財政は私の肩にかかってきていた。両親の健康保険を含めた社会保険、その他諸々の扶養手続きもして、私は一家の大黒柱として家計を支えていた。
ありがたいことに、病院から貰えるお給料とボーナスで生活費には充分な金額が確保できていた。また入院費や医療にかかるお金もあれこれの制度を利用しながら、ほぼ負担のない状況にできたので金銭的なことで生活が困ったことにはならなかったのだ。

ただ、シナリオは逃れられない結末に向けて進んで行った。

息子と二人で生きていく決意

父の病気に関わる一連の状況は、病院の検査室には多大な迷惑をかけてしまうことになる。1ヶ月の長期休暇は勿論のこと、息子が熱を出して祖母に呼び戻されたこともある。検診の予定が入っていて抜けられない状況の中、検査室の上司は私に家に帰るよう命令してくれた。

病院の仕事はある意味特別だ。「人の命を扱う」このことは思いの外重たい。自分の父の命は父についてくれる医者に任せることができるが、目の前の救急患者の命は私のクロスマッチ(献血のための適合)検査がなければ救えない。例え父が危篤になっても選ぶべきは自分の任務だった。白衣を着てフロアーを歩く時、仕事に対しての誇りと快感を感じてはいたが、この仕事を全うするためには自分の家族の犠牲が伴うことを思い知らされた。

自分の息子の病気の時は自分の息子の側にいられる仕事をしよう。
母や祖母の力を借りなくても息子と二人で生きていける方法を探そう。


私の気持ちは大きく動いた。


いままで、ここ(実家)での生活は息子の面倒をみてもらえる環境があることが最大の支えだった、父の病気の件でその恩恵は案外脆いものだったことに気づく。

息子と二人だけで暮らせる生き方をする必要がある
そう決意したのだ。


ちょうどそんな折、広島の友達から「広島に住まないか」との誘いを受けたのだ(まるで神様に状況を見透かされているかのような誘いに驚いた)。友達がマンションを売って一軒家を建てることになり、それまで住んでいたマンションを借りて住まないか?と言う話しだった。

結局友達のマンションは賃貸ではなく売却という形で買い手が見つかり、住居の話は無くなったが、この話がきっかけで私は「広島へ行こう」と思い始める。



しかし
せっかく手にしている病院の正職員の立場を捨てるのか、
岡山より都会の広島とは言え仕事が見つかるのか、
いまは必要ない家賃や光熱費の負担を背負って生活が成り立つのか。


迷って、迷って、迷って、揺れた。


ワクワクを感じる方を選ぼう

人生の安定は圧倒的にこのままの暮らしを継続することに歩があったが、これからの未来の可能性を思うと広島での生活に軍配があがった。

誰の為とか、誰かが困るとか、そういう一切の要因を排除して、
ただ純粋に、自分の心に「どっちの道がワクワクするか」を問いかけた。
その結果出した答えだった。

当時心配して「それで実家は大丈夫なの?」(母と祖母を残していくこととなる)と聞いた友人に私が告げた言葉は「私自信が幸せになれない道を選んで、周りの人を幸せにすることはできない」

友達の答えは「そりゃそうだ!」だった。
彼女は全面的に賛成し私の旅立ちを後押ししてくれた。


父の葬儀から半年後の春に、

私と息子は実家を出て広島へ向かうことになるのだ。

岡山→→→広島へ
↓↓↓↓↓
[りんごの転がり人生]4:新たな旅立ちと世の中へ漕ぎだした冒険編(~44)


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