[りんごの転がり人生]2-2:幸せの絶頂から転がり落ちて地下に潜った、どん底編(~33):後半
<ここまでの記事>
以下の順にお読みいただくと[波瀾万丈ストーリー]がよくわかります。
■はじめに:[りんごの転がり人生]波瀾万丈を綴ります
■7話_1:夢を見つけて、夢を追いかける挑戦編[ミニ四駆]
■1話:順風満杯のバブル編「挫折を知らずに育ったりんごの青春」
■2話前半:幸せの絶頂から転がり落ちた潜伏編(前半)
順調にきた人生、自由を謳歌した青春時代、から突然の急展開
全てが目の前から消えた、崩れ落ちた、そんな転落が待っていた。
その渦中で出会ったビジネス書がりんごの人生を切り開く
「思考は現実化する」
ただ、それを自分の経験と重ねるためには、それなりの時間は必要だった。
まだまだ先の見えないどん底編の後半です。
広島へ舞い戻る
半年間の名古屋生活から一転。
再び、因縁の地広島に舞い戻ることになった。
住居に選んだのは、海は見えない街中のマンション。
階下は銀行、スパーは極近の好立地の環境だった。
息子は1歳半になっていたので、託児所を探して預けることにした。
おかげで、外に働きにいける時間を手に入れた。
名古屋時代もずっと継続していた派遣会社との付き合いで、そこそこ仕事は埋まっていった。
夫の仕事も順調で、これでこのまま新しい人生をやりなおせる、そう「いけるはず」だった。
一度あることは二度起こる?
当時なぜかユーミンの「リフレインが呼んでいる」をよく聞かされた。
夫が「この曲が好きだ」と言って何度も流していたからだ。
その時は何気に聴いていたが、ここに序章は書かれてあったような気がする。
ある日、派遣の仕事から家に帰ると、部屋の様子がいつもと違っていた。
勤務時間の関係で、いつも私が先に家を出るので帰った時は、投げ散らかしたパジャマや敷いたままのお布団を片付けるのが日課だった。
だが、
その日だけは、綺麗に片付けられた部屋。お布団は気味が悪いくらいきちんと畳んで積まれていた。
ピンときた私は
「やられた!」なぜかそう思った。
蓋を開けると、友達との仕事は最初は順調だった。夫は本当にちゃんと成果を出していた。
でも、
事の起こった2、3ヶ月前から、空契約が頻発していた。夫が手伝っていた友人の会社はポスティングだけでなく、求人情報の掲載された無料の冊子を作成して配布していた。掲載料を依頼された会社からいただく(今でいう「フリーペーパー」の)仕組みを作っていたのだ。
夫はその掲載契約営業を担っていたのだが、お客さんには「料金はいらないから」と無料で広告の掲載依頼を受けて、会社には有料受注の伝票をあげていたのだ。
もちろん、補填(ほてん)する資金はなかったので、掲載料は未払いのままになっていた。それが発覚する直前で、またしても夫は「飛んだ」のだった。
幸い、前回の事件で金貸業者のブラックリストに登録されていた夫は一切の借金やローン、カード作成もできない状況だったので、返済が必要な借金はなかった。(闇金融に手をださなかったのが唯一感謝だ)
ただ、夫を名古屋から呼び戻した友達は激怒した。
「こんな仕打ちを受けるなんて」と目の前で泣かれた。
「広島から出ていけ!」と罵声を浴びせられ、私と息子は会社契約だったマンションを追い出されて広島を去ることになった。
岡山へ
広島から追い出された私と息子は岡山市内にある夫の実家に身を寄せることになった。
夫の飛んだ状況は1回目と似ていたし、今回は金銭面での対応は無かったので、そう慌てることもなく「待つ」方針を決めた。
夫の実家は商売をしていて、住まいとなったのは社屋を兼用する3階建てのビル、その2階部分を借りて家具類を運び込みそこそこ快適な暮らしができた。私は息子を保育園に預けて仕事をした。
ただ、月日が経つうち、段々に夫の実家の風あたりが強くなった。(自分の息子のしたことは全部棚に上げて、遠回しに)こうなった原因が「私にある」と責められるようになったのだ。
なんとなくそんな状況に明るい未来を感じられなくなった私は、夫の実家を出て岡山市内で息子と二人暮らしを始めた。もちろん貯金はなくその日暮らしが精一杯だった。
行政の助けを頼ってみたが、今回もことごとくそっぽをむかれた。
福祉の窓口で夫が失踪した理由を問い詰められた時のこと、私は正直に「詳細はわからない」と答えた。
この時の担当者の一言は今でも私の心の傷だ。「パートナーさんが家を出る場合の理由はこの2つのうちのどちらかに決まっているんです。浮気または金銭問題、どちらですか?」と詰め寄られた。
「わからない」と答えながら、この人達の助けはかりないと決めた。
そもそも相談した生活保護の制度は、
「いま飛べる力がない人に力を貸して自分で飛べるように」援助するための制度ではなく。「今ある羽をもがれ二度と自力で飛べなくなる」そんな仕組みだと理解した。
自分はそんな道は選べないと心から思った。
私をうごかした言葉
「いていい親といてはいけない親がいる、あなたの夫は子供にとっては後者になるよ」
友達に連れられて訪ねた(いわゆる)霊媒師のおばあさんの一言だった。
その言葉が私の心を動かした。
今までの過程から、夫の将来を想像し見切りをつけたのだ。
自分一人なら露頭に迷っても夫について行くと選んだかもしれない道だけれど、息子にその運命を強要する訳にはいかない。息子共々夫と一緒に坂道を滑り落ちることはできないと強く思ったのだ。
私は、夫と繋いでいる手を離すことにし自分の実家に帰ろうと決心した。
ただすぐには動けなかった。実家は超田舎で、仕事を探すのは難しいと想像できたので時前に臨床検査技師のツテを頼って実家から通える職場を探した。各方面へ情報共有を求めて暫く待った。岡山で別の仕事を探して勤め出したころ、県北の病院に空きがあると連絡が入り、正職員、給料も好条件での採用が決まった。
離婚
見切りをつけた私は夫との関係も精算することにした。
病院に通いながら、相手不在の状況での裁判をして離婚と親権を得る判決を勝ち取った。(いない本人からもらえるはずもなかったが)慰謝料の額も提示された。
離婚裁判は夫の実家には知らせずに行ったので、無断でとった行動に抗議を受けた。しばらく続いた抗議は慰謝料の書かれた判決文を送ったところで途絶えた。
離婚が決定するまで、実は悩んでいた。今日は「離婚しよう」と決めても、次の日は「やっぱりやめよう」と迷う。
裁判をしながらもそんな心の揺れは続いていた。
でも、実際に判決が降りた時は心からほっとしたのだ。
その時、
「私は離婚したいと思っていたのだ」とはじめて確信した。
心が解放された、そう感じた。
最初に広島のマンションで夫が消えて依頼、胸の上に重くのしかかっていたお布団の重圧がやっと無くなった。心が締め付けられることもなくなった。
これで、普通にテレビをみて笑える。
世の中をお日様を浴びながら歩ける。
心からそう思った。
長い間、地面の下にいたけれどやっと地上に出ることができた。そんな感覚だった。
振り返った時間は楽しかった
地面の下にいた時間を振り返って思わずつぶやいた言葉は、
「楽しかった」
そう、およそ2〜3年あまりの出来事。過ごしている最中は先が見えず大変だった。
でも、こうして思い返すと色々な人に助けられた。
嫌な思いもたくさんしたけれど、差し伸べれた手は暖かかった。
この時からよく使うようになった言葉がある。
「世の中甘くはないけれど、捨てたもんでもない」
ちゃんと頑張れば大丈夫、いい方向に向かえるように世の中の真理はできている。
「正しい行動は報われる」この大原則を信じられる自分になっていた。
この歳で(当時32歳)、「この経験を得てこんな風な心持ちになれたことで、これからの人生どれだけ心が楽に過ごせるか」それを思うと怖いものはないなぁ〜、むしろ何が起ころうと楽しみで仕方がない。そんな風に思えた。
「思考は現実化する」
一番きつい最中に読んだ本の内容が蘇った。
「思い描いたことが現実になる」
りんごの芯になる考え方が出来上がった。
*復活編の3話へ:[りんごの転がり人生]3:地上に出てお日様を浴びた復活編(~37)
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