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[りんごの転がり人生]2-1:幸せの絶頂から転がり落ちて地下に潜った、どん底編(~33):前半

<ここまでの記事>
以下の順にお読みいただくと[波瀾万丈ストーリー]がよくわかります。
はじめに[りんごの転がり人生]波瀾万丈を綴ります
7話_1夢を見つけて、夢を追いかける挑戦編[ミニ四駆]
1話順風満杯のバブル編「挫折を知らずに育ったりんごの青春」
2話前半


順調にきた人生、自由を謳歌した青春時代、結婚、出産、
幸せの絶頂にいた。

高級住宅地の高台に建つ新築マンションを購入し。
夫は外資系の保険会社へ転職、シミュレーションされた年収グラフは旧会社の何倍にもなる未来を描いていた。

出産のための里帰り期間が終わり広島に戻った私は子育てに奮闘しながら充実した幸せな時間を過ごしていた。
新居のマンションのベランダで息子と日光浴をするのが日課で、季節が初夏に向かう中で浴びる陽の光はエネルギッシュだった。ベランダからの視界には瀬戸内海の海と島々の眺望が広がる。行き交う船や学生が練習するヨットの白い帆、見下ろす世界は文字通りキラキラ輝いていた。


転落、日常から非日常へ

しかし、幸せの絶頂からの転落は突然起きたのだ。

いつものように朝、玄関で手をふり夫を見送った。

・・・・・・・・・・・・



次の日、朝まで待っても夫は家に帰ってこなかった。
昼過ぎには、会社にも出社していないことが判明した。
今までも、連絡なく仕事や飲みで遅くなる日はあったが必ず朝には家に居た。また連絡なく会社を休むこともなかった。はじめてのことで少し戸惑ったが、「何か事情があるのだろう」「そのうちわかるだろう」とそれほど大袈裟なこととはとらえていなかった。

夫への連絡は何度も試みたが、ポケベルも電話も音信不通。とりあえずなすすべなくそのまま2、3日が過ぎたが状況は変わらずだった。

流石に、会社の上司が心配して状況を伺いに家まで来てくれた。
でも、その時は「人生こういうことは一度や二度は起きる」「まあ、そのうち連絡があるだろう」と様子を見ることにし、さらに1週間が過ぎた。


そんなある日、ポストに小さい封筒が届いた。
差出人も、手紙もなく、中には家の鍵だけが入っていた。

この時から事態は急展開していく。

家の鍵が送られてきたことで、色々推測が出来た。
送り主はほぼ間違いなく夫本人。
連絡が取れないのはおそらく本人が意図して行動していること。
そして、家には当分戻らない意思があるであろうこと、、、、、、


さらに、そこから後の数日間で起こってきた(表面化してきた)様々なことで、何故夫がそんな行動を取ったのかの原因が明らかになっていった。

かわきりは、あるクレジット会社からの電話「引き落としがもう3ヶ月も滞納されている」いわゆる支払いの催促だった。

そして、状況は次々と表面化していった。夫の金銭事情とそれにまつわる行動の様子が見えてきた。

明らかになって思えば色々思い当たることが出てきた。
前兆はもう、何ヶ月も前から始まっていたのだった。

引っ越しや出産に伴う期間の中で、私は家の通帳や印鑑を全て夫に預けていた。当時はまだインターネットバンキングなどのシステムはなかったので
お金の出し入れはリアルで(銀行に出向いて)行う他はなく、自分で動けない私(身重そして産まれたばかりの子供を抱えて)は夫に全てを任せていたのだ。

まず確認できたのは、全ての口座のお金は全部引き出され残高は無くなっていたこと。そして、必要な支払いもとどこおっている状況が次々と明らかになっていったのだ。

マンションのローン、
新居のために買い揃えた家具や雑貨の支払い、
息子の出産祝いのお祝い返しの支払い、
その他諸々、、、

全て夫に支払い手続きを委ねていたが、ことごとく未払いの状況であることが判明した。そして、夫がいなくなったタイミングはそれらの支払いの督促が始まる直前だった。


そもそもなぜ、そんなことになったのか、

夫はギャンブル好きだった。競馬とか競輪とかではなく、手を出したのは株式売買。証券会社の友達を通してかなり大きな取引をしていたらしい。

中古マンションが倍の値段になって売れた時1,000万円近い利益が出た。当然新しいマンションの資金にと思っていた私に「兄貴が商売で困っている、助けたい」とそのお金を彼の実家の支払いにまわすことを承諾させられた。

しかしこの理由は真っ赤な嘘と判明する。このお金は全て証券会社へ流れ、株売買の取引に使われ、、、消えていたのだ。

さらに、株式売買の損失を埋めようと「先物取引」に手を出していた夫は、
かなり大きな額の損失を出して差額の支払いに追われていたとのこと。

夫は私からの支払い依頼で通帳を受け取るたびに、引き出したお金を本来の目的ではなく相場の運用資金の補填に当てられていたらしい。最初は記帳内容を確認していたが出金のみなので気づくこともなく。いつの日からか通帳が私の元に戻ってくることは無くなっていた。おそらく私からの依頼以外の出金がされていたと推測できる。(思えば確認の甘さをつけ込まれたのだ)


おまけに、順調に見えていた保険の営業さえもことが起こる直前の状況は架空の契約で埋め尽くされ、その保険料の負担も夫本人が担っていた。

「いつか」、
来るはずのない「いつか」をあてにし、大きく当てて全てを取り戻すつもりであったらしいがそんな甘い話しになるはずもなく。
とうとう資金もつき、支払いは滞り、夫はいわゆる「飛んだ」(借金を踏み倒すために行方をくらました)のだった。

上記の事実が次々に明らかになる中、私はただただ事実を受け止めていた。というより何が起こったかを明らかにするために奔走していた。

もちろん一人では無理だったので、夫の実家の支えを頼った。特に元々友人だった夫の兄が献身的に動いてくれた。会社の上司も親身にサポートしてくれた。
自分の実家には、とりあえず広島で夫の帰りを待つと決めたことを告げたのだが、理解してくれたのか(言っても聞かないと諦められたのか)連れ戻されたりはしなかった。


そこからの日々は壮絶だった。金融会社からの入金催促(トリタテ)の電話が鳴り響いた。何人か取り立ての営業マンが自宅にも来た。

勿論支払うお金はなかったので、支払いはできなかった。私はひたすら「すみません」「夫の居場所はわかりません」を繰り返した。
ありがたいことに、いわゆる闇金融と言われる危ない業者からの借入はなかったので表向きは紳士的な対応だった。(暴力や身の危険に及ぶ恐れはないと判断していた。)

それでも、取り立ての電話は毎日激しく鳴っていたので、電話に出れない日が続いた!

まだスマホもない(携帯電話すらない)、勿論LINEやその他の連絡手段もない頃で外部との通信手段は固定電話のみ。そのため知り合いからの電話は回数を決めて呼び出し音を鳴らし一旦切ってから再度かけ直してもらうというルールを決めて、該当の電話にだけに出るようにしていた。


事態の把握ができたところで、大筋の対応を決めた。

とりあえずほとぼりが冷め、夫から連絡があるまでマンションに住みながら待つ方針を決めた。そのために必要なお金は夫の実家に援助してもらうことになった。マンションのローンや個人の人への借金。息子のお祝い返しの支払いなど、どうしても必要なところへの支払いを肩代わりしてもらった。

その他の夫名義のローンや借入はとりあえず踏み倒すことにした。
(当然矢のような催促を受けたが、時間とともに沈静化していった)

ただ、日々を食べて行くにはそれなりのお金がいる。全てをおんぶに抱っこでは、夫の実家に申し訳がない。日々の生活費のため仕事をくれるよう夫の会社の上司にすがった。家にいて息子の面倒をみながらできることが条件だったので、上司が用意してくれたのはデーター入力の仕事だった。

入力件数に応じて単価を上げるという設定にしてくれていたので、私はいつも最高単価になるまで頑張った。それと同時に、データーベースの基本システムを構築したり、データーを集計して色々な指標を表示させるオプションを組み上げて無償で提供したりしたので「これって、データー入力よりもこっちの作成の方が相場が高いんだよね」と言われ感謝された。おかげで、「施される」という感覚ではなく充分に貢献できているというやりがいも与えてもらえながら、月々の生活費を確保できるくらいの収入を得ることができたのだ。本当にありがたかった。

そうこうしながら3ヶ月ほど経過した頃流石に、会社から「もう待てない」とのお達しが来た。やむなく、夫に代わって退職届けを提出した。

夫の会社では、入社して2年は研修期間として、給料がコントロールされ段階的に決まった額の給料が支払われる制度になっていた。基本は歩合制の給料体系だが、最初のうちは会社の補助が出る仕組みだったのだ。つまり、保険の契約が取れなくても研修期間中は一定金額の収入が保証される制度が取られていた。

もし保証される金額よりも獲得した契約の成績がよければ、その報酬はストックされて研修期間が終わった時に一括で受け取れる仕組みだった。上司からは、夫にはそれなりのストックがあるので、退職後の生活費に当てることができると前情報として聞かされていたのだが、結果は上司も驚愕の冷たいものだった。

積み立てた報酬を受け取るためには研修期間を終了することが条件。つまり、途中でリタイアした夫の報酬は会社没収となって私のもとには一円も入らなかった。

その状況をみるに見かねた夫のもと同僚達が上司同様に私にデータ入力の仕事をくれた。おかげで、とりあえずの収入確保ができなんとか生活をつなぐことができたのだ。


運命を変えた「本」との出会い

ただ、このことがきっかけで私は私の人生を変えたと言っても過言ではない「」に出会うことになる。(今思い返して大袈裟な言い方をするならば、この本に出会うために全てが起こった。とさえ言える気がする)

その本は3部作(3冊)のビジネス書だった。

夫が帰らないと悟ったころ、私は夫の書斎でその本を見つけた。
夫がそれを購入したことは知っていたし、どんな本かも聞かされていた。

何もできない時間の中で何故かその本が気になり読んでみることにした。

本の題名は、
「思考は現実化する(I)(II)(Ⅲ)」ナポレオン・ヒル著

細かいことは忘れたが

「失敗は自分が失敗したと決めない限り失敗ではない」
なので「必ず成功するという言葉は100%正しい。失敗だと決めず成功するまでやり続けるならば結果は必ず成功となる。」
確かそんな意味のことが書かれていた。

この内容を読んだ私は、ちょっと「へ理屈?」とは思いながらも「その言葉に間違いはないなあ」と納得したのだ。この言葉の表すことは正しいと理解し、(自分が生きているうちに成し遂げるかどうかは置いておいても)いくら失敗らしいことが続いても成功するまでやめなければいい、諦めなければいい、それならできる。そう思ったのだ。

へ理屈だろうがなんだろうが構わなかった。

私はこの本の言葉で「救われた」し、この先の人生に光を感じることができたのだ。

夫のことも、どこで終わりにするかは自分で決めることができる。それまでは何が起ころうが最終結果ではない。自分の人生も結婚も起きている事態も今はまだ失敗とは言えない、言わなくていい。

この考え方が正しいとか間違いとかそんなことはどうでもいい、
今、自分はそう思うことで前が向ける。

それだけで十分だった。


日常と非日常

状況は厳しく非日常的なことは色々あった。
でも、日常は至って平穏な日々だった。

隣近所には、「夫は出張」ということで話は通った。
事情を知っている夫の会社の友達(奥様仲間)があれこれ気を使ってくれて、お茶会をしたり、夕飯に呼んだりしてくれたりした。
実家の父母はあえて何も言わないでくれた。食料の援助をしてくれ、たまに車で岡山から来ては外に連れ出してくれた。

夫の実家はマンションに住み続けるための金銭的な援助をになってくれた。

私は、行政機関を周り、ありとあらゆる援助を模索した。ただ、その対応は表面的には同情、結果は何も援助なしの極めて冷たいものだった。
そこにはお役所らしい理由が並べられた。どこに行っても「離婚して一人親なら、いくらでも手厚い援助はあるがそれに当てはまらない」夫と婚姻関係にある時点で補助も援助も、借りられるお金の制度もなかった。

一番驚いたのは警察の対応だった、「本人が大人で本人の意思で行動している以上、探したりはしません。つまりよほどの事件性がない限り何もしません。」
「捜索願は受け付けますが、それによって出来る事は何か情報があれば共有するくらいです。それもご本人が拒否された場合はしません。」

「捜索願い」ってそんなもんなんだとはじめて知った。

なるほど、人が居なくなった時に探す術はないんだ、つまり本人の気持ちが変わり自ら動くのを祈るしかない。(だから神頼みとかが絶えないんだ)

そういう現実を知らされた。


あんなにキラキラしていたベランダからの景色は一瞬にして色を失った。
同じ景色のはずなのに、そのキラキラはもう私のものではなかった。

私は、心が締め付けられるような息苦しさの中にいた。
重い布団が胸の上にずっと乗っているような圧迫感が常にあった。

「いつか心が壊れるのだろう」
とぼんやりその時を待つしかないと思っていた。

ただ、いつまで待っても私の心は壊れなかった。
(案外人の心って壊れないものなのだ、この時素直にそう思った)


待つと決めた私に起こった色々なこと

その1:やたらと宗教関係の人に声をかけられた、
(事情を話したわけではないけれど)
公園や、バス停、色々なところで声をかけられることが多かった。
(助けが欲しい顔色をしていたのだろうか)

いくつか詳しい話しを聞きに集会や本部とやらに行ってみたが、「先が暗い」そんな印象しか受けず、幸運にも引きずり込まれるようなことにはならなかった。

その2:不思議とお金や食べものが集まった、生活に困らなかった
どうやって回していたのか今でも不思議だが、必要なお金は必要なだけ手元にあった。小さな仕事とお金が常に舞い込んだ。
主にはパソコンを使った入力や作成の仕事だったり、ポスティングだったりの仕事がもらえ息子の寝ている間の時間で生活に足る金額は稼げた。
実家から届く野菜や食料は十分すぎるほど豊かな食卓を支えてくれた。

その3:近所や事情を知らない親戚等、何も変わらない付き合いができた
どこまで本当のことが知られていたのか今でも不明だが、近所には単身転勤、親戚には海外出張で通した。

その4:踏み倒した借金
借金の件は「たとえ夫婦でも借金の責任上は他人」という事実に救われた。つまり私が支払う義務はない。「あくまでも夫の責任」なので支払いは夫に請求するべきだが居ない夫に請求する術はなく、時間とともに催促の嵐は止み、とりあえずそのまま時が流れた。


無言電話

そうして過ごす中、ある夜出た電話、、、
(その頃は普通に電話が取れる状況に回復していた)

無言だった。「もしかして」と心がざわざわした。

それから、夜、昼なく、無言電話がかかって来るようになった。

そんな日が何日か続いたあと、

ある夜出た電話で、「◯◯ちゃん(夫の名前)」と呼びかけてみた。返事はなかったが、切られることもなかった。

恐る恐る言葉を続けた、

「話せないなら、何か音を出して答えて」と咄嗟に提案した。

Yesなら1回、机を叩く(トン)
Noなら2回、机を叩く(トントン)

この申し出に無言電話の主は乗ってくれた。

会話の中では夫本人とは特定せず(気持ちのなかでは確信があったが)
「台風は大丈夫だった?とか」
「仕事はしているの?だとか」
たわいない質問をして、「トン」「トントン」で会話をする日々が続いた。

そのうち、YesとNoだけでは対応できない質問に答えてもらうために五十音の変換表を作ってその決まり事を伝え、短い単語の答えを引き出せるようになった。

そうしたやりとりが続いたある日。

電話の主が「もしもし」と声を発した、夫の声だった。

急展開

電話で声が聞こえた日から事態は急展開した。

お互いに現在の状況の共有をした。

私は、マンションに住み続けていること、
あらかたの大きな借金は夫のお父さんが老後のためにと購入していた土地を売り肩代わりしくれたこと、
その他の借金は踏み倒したこと、
会社は退職になったこと、
などを告げた。

夫は名古屋にいて、仕事をしていた。

話はマンションを売り息子と3人で名古屋へ移り住むことでまとまった。

マンションを売りさばくのはちょっと大変だったがなんとか上手くいった。人気のマンション、高層階の南向きの部屋は、希望通りの値段で売れて借金を背負わずローンの返済もできた。

マンションを売る手続きをしながら、何度か名古屋に通い新しい住まいを決め、引っ越し手続きをして。私と息子は広島をあとにした。

今回の1件について、本当のところは何が起こったのか?夫は行方をくらましてから何処で何をしていたのか?、夫に対しては色々なことは何も聞かなかった。(結局最後まで聞かずじまいだった。)


南極船「ふじ」の停まる港

事が起こってからおよそ1年後、名古屋での新たな生活が始まった。夫の仕事の内容については詳しくは聞かなかったが、電話営業の仕事らしかった。お給料は毎月家計に入れてくれたので問題はなしとする事にした。

名古屋に行ってからも、私は空いた時間でパソコンの仕事をしてお金を稼いだ。広島よりはひとまわり都会、探せば家でできる入力の仕事はいくらでもあったし、十分な額を稼げたのだ。

引っ越ししたマンションは名古屋港の近く、毎日の息子とのお散歩は名古屋港公園、南極船「ふじ」が繋がれているところだった。タイミングがあえば港を巡る「金の鯱鉾」の形の遊覧船に出会えた。

マンションでは子供絡みで同世代の仲間ができ、よくみんなでカラオケや食事に出かけた。帰る家が同じなのでとても楽だった。ほぼ毎日のように誰かの家に集まってお茶会をしていた。特に手作りお菓子を作るのが好きで得意だった私の部屋はよく利用され、おやつを囲んでいつも笑い声が絶えなかった。

再び広島へ

平和だった日常が再び、運命のうずに巻き込まれる。

広島時代の友達が突然訪ねてきたのだ。
訪ねてきた理由を要約すると「ポスティングの会社を立ち上げて、頑張っている、ぜひ手伝って欲しい」夫の営業力を買われて猛烈なアタックを受けたのだ。

めちゃくちゃ迷った結果、友達の熱意に折れ再び広島へ舞い戻ることになった。

引っ越しして来たのは夏の港祭りの前日、マンションからは花火がよく見えた。半年が過ぎ、秋の港祭りの花火の頃名古屋を後にした。

*[りんごの転がり人生]2-2:幸せの絶頂から転がり落ちて地下に潜った、どん底編(~33):後半へ続く


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