[りんごの転がり人生]4:新たな旅立ちと世の中へ漕ぎだした冒険編(~44)
息子と二人、本当に小さな船に乗って大海に漕ぎ出した。
コンパスもなく、備蓄も頼りなく、
それでも、「なんとかなるんじゃない」
安全な陸(おか)にとどまっているより
絶対こっちの方が楽しい人生になる。
そう確信していた。
<ここまでの記事>
以下の順にお読みいただくと[波瀾万丈ストーリー]がよくわかります。
■はじめに:[りんごの転がり人生]波瀾万丈を綴ります
■7話_1:夢を見つけて、夢を追いかける挑戦編[ミニ四駆]
■1話:順風満杯のバブル編「挫折を知らずに育ったりんごの青春」
■2話前半:幸せの絶頂から転がり落ちた潜伏編(前半)
■2話後半:幸せの絶頂から転がり落ちた潜伏編(後半)
■3話:地上に出てお日様を浴びた復活編(~37)
「片親には貸せない」「女には貸せない」
広島に住もうと決めてから、まず住まいを探した。
これが思いのほか難航。
兼ねてより息子を通わせたい小学校が決まっていたので、住居はその小学校の学区であることが第一条件となった。
実はその学区はかつて息子が生まれて住んだ地区で、ある意味因縁の土地ではあったのだが、そんなことはどうでも良いと思えるくらいに魅力を沢山持っていたのだ。まず私を広島に誘ってくれた友人の住む地域であったこと、目的の小学校は友人の子供達も通っていて息子の友達にも困らないだろうと思われたこと。何より海の見える高台にあり「宮島」を臨む瀬戸内海の眺めは広島市の中でも一級品だった。その地域は高級住宅地ではあったが、下調べでは賃貸のアパートも思いのほかたくさん存在していてなんとなく良さそうな物件に当たりをつけていた。私が用意した家賃の上限は7万5000円。まだ仕事の目処も一切ない中で無謀な金額だったかもしれないが「なんとかなる」を口癖に周りを説得して行動を開始したのだった。
ただ、難航した理由は家賃ではなく、世の中の偏見。
お世話になった不動屋さんがポロっと漏らした言葉に驚愕した。
「一人親はトラブルになりやすいので貸せない」
「女の人は火事を出しやすいので貸せない」
思わず「???????」となる理由だが、個人の大家さんが多い地域で、大家さん同士の付き合いも深く、あるアパートで「一人親の女性がトラブルを起こせば、その噂がみなさんに伝わり、一人親はやめておけという風潮になってしまうんです。」不動産屋さんとしては「ある家主さんがそういう理由で断った人は、他の大家さんにも紹介できなくなってしまって」という「とてつもなく理不尽な理由」の裏事情が発覚した。
不動産屋さんからは、別の地域の紹介も受けたが私の決意は固かった。
私の熱意に負けたのかはわからないが。
「ここの大家さんなら大丈夫ですよ」「家賃さえしっかり払ってくれれば、一人親だからとかそういうNGはありません」とOKな物件を2件ほど探してきてくれた。
一方は、ベランダから海が一望できるマンションの5階にある部屋。もう一方は海の見える部屋よりも安くて綺麗で1階にある部屋だった。せっかく此処(海の見える高台)に住むのなら、お部屋から海がみたい。家賃は少し高めだったけど私は海の見える部屋を選択した。
不動産屋さんからは
「此処からなら、宮島の花火も港祭りの花火も両方みれますよ(^^)」と言われた。
一緒に部屋探しをしていた息子からは
「母さん此処の家賃ならちょっと節約が必要だから、玉ねぎの切った先っちょは捨てずに水につけねぎを育てんといけんなぁ〜」と言われた。(ちょうど直前にTVでそんな風にして節約生活をしている家族のドキュメンタリーを見たばかりだった息子の助言だった)
それを聞いた不動屋さんが肩を震わせて笑ってくれたのは今でも忘れない。
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補足:
この時お世話になった不動産屋さんはそれから20年超の縁が続いている。この部屋から一度引越しをするが、ネットで見つけた部屋の問い合わせ先は偶然にもこの不動屋さんだった。さらには、息子が就職して一人暮らしを始めるために自分で探してきた部屋も、この不動産屋さんの管理物件だった。息子が部屋を借りたのはその不動産屋さんの跡をついだ息子さんからだった(今でも元気に親子で経営をされている。)
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息子は、私の希望した小学校に入学することになった。
暫くして訪れた参観日、教室から一望できるキラキラの海が眩しかった。
起こって来ることを正しいと思える考え方
広島行きについては、今思い返しても無謀なことをよくやったと感じる。
(その無鉄砲さには、自分でもどんだけ夢みてんやとツッコミたくなる)
*ただその決断がなければ現在のほぼ全てが存在しないくらい大きな起点だったことは確かだ。よく決断してくれたと当時の自分にお礼を言いたい。
(今でこそ、大成功の決断だったと言えるのだが当時の私がその後の展開を知るよしもなく)
「自分と息子のために」より楽しい未来を期待して、とかっこつけたことを言って決めたとはいえ「本当にいいのか」、と心は揺らいだ。
引越し先が決まっても
引越し業者の予約ができても
引越し当日がきても
それでも「本当に引越しするべきか」の確信はなく心は揺れていた。
引越し業者のトラックとは別に、自分達の車で広島に向かうことになった私と息子は今まで一緒に遊んだ友達やその家族から盛大な見送りを受け、新婚旅行のように車にカンカンを何個かくくりつけられたりもした。
「すぐ帰るから」
「また遊ぼう」「元気で頑張れ」
息子はずっとずっと手を振りながらみんなの見送りを受けた。
広島まで運転しながらの車の中でも私は
もし、途中で事故があったり辿り着けないことが起これば、「行かない方が良いと言うこと」その時は潔く諦める覚悟もあった。
もし、無事に辿り着ければ「この引越しはGoだと言うこと」
たどりつけた事実を信じて一生懸命やってみようと自分に誓った。
私には「思考は現実化する」と同じくらい生き方の芯になっている考え方がある。
トラブルが起ころうが、上手くいこうが、結果となる事実は一つしかない
その起こった事実が最善なんだ!
そう思い切れる力がその時の私にはできていた。
やろうとしたことがつまづいて、一見逆境や失敗に見えても
予定していたことは「起こらない方が自分に取ってよかったんだ」
もっといい道や方法があるに違いない。
そう心から思える考え方が確率していた。
息子も私も引っ越しのトラックも無事広島の新居に着た(^^)
何処からみても無謀な広島暮らしがこうして始まった。
もう白衣は着ない
検査技師という仕事を辞めて新しい仕事を探すにあたって、私はその仕事の選択にもある拘(こだわ)りを貫いた。
その拘りとは、もう白衣は着ないと決めていたことだ。
臨床検査技師という仕事は好きだったが、病院の検査室に居ることでしか働けない業務で、責任もある(命を預かる)。その決意を聞いた友人達からは「せっかく取得した国家資格がもったいない」と何度も言われたが、私の意思は固かった。
春に引っ越しをして半年は仕事につかないことも決めていた。
(病院でもらった退職金と、3ヶ月待ちで出る失業保険で食い繋ぐ計画だ)
息子は初登校の日から友達をゲットして家に連れてきた。
ゲームという共通アイテムがあれば初対面であろうが、転校生であろうが打ち解けるのに30分とかからなかった。持ち前の天真爛漫な明るさと遠慮のなさが発揮されて、息子は次々と友達をゲットしていたようだ。いつも数人が押し寄せて、放課後の我が家は賑やかだった。
子供達のいない時間私は友達の家に行きお茶をしたり、パソコン仕事を手伝ったり(お掃除したり)が日課になっていた。生活や仕事に不安がなかったわけではない。でも暫くは仕事は探さず「息子との時間を優先したい」、「息子が帰った時に家にいたい」というわがままを貫いた。
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後で思ったのだけれど、こういう自分への拘りやわがままはできるときに貫いておいた方が良いと思う。基本的に人生(世の中)は理不尽なので(笑)いくら自分でこうしたいと決めていてもその通りに事が運ばないことの方が多い。そうした時わがままを貫いて許された時間が少しでもあればそれが力になる。「あの時好きにしたから今は仕方ないか」と余裕を持って目の前の理不尽を受け止めることができるからだ。
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そんな私を試すように、かつての同僚(昔広島で働いていた時の検査技師の友達)から、働いている病院(市内では大きな病院の一つ)で正職員の臨床検査技師を募集している、ぜひ来ないかと誘いを受けて流石に迷った。
その誘惑はかなり強力でお給料も待遇も申し分なかったし、友達から「うちの病院で正職員の募集は滅多にない」とも言われた。でも、どうしても、そうでない道を歩いてみたいと私はその話を断る決断をした。
そんな風に時間が過ぎる中で、職安で目についた「職業訓練」のチラシに心が惹かれた。ちょうど国の就職支援拡大の取り組み中で色々な業種の訓練項目が用意され失業保険を受けながら学べる制度になっていたのだ。その中から「デザインを学ぶ半年間のコース」を見つけた私は、その申し込みに応募して受講できることになった。
職業訓練の受講場所は広島市内の「デザインカレッジ」。日頃は有名美大を受験する人たちの予備校の色が強いデザインの専門学校なのだが、そこに職業訓練用の特別コースが設けられデッサンから学ぶことになる。
私にとっては憧れていた体験、夢のような時間が訪れた。毎日毎日絵を描くことだけを考えて時間が過ぎた。家にもアクリル絵の具とパレットを持ち帰り夜遅くまで色塗りに没頭したりした。
授業は息子の帰宅時間をオーバーすることもあったが、半年経って学校にも慣れた息子にはなんの支障もなく、いわゆる「鍵っ子」になることさえ喜んで受け入れてくれた。それより学生になった母親の取り組みを興味深かげに観察しているようだった。
職業訓練が終わりをむかえるころ、「自分に許した1年が終わる」、「そろそろ職探しをしなくては」と思った矢先に、同じ職業訓練を受けている仲間から 「◯◯さん、あるパソコン教室でインストラクターを探しているのだけれど、やらない」と声を掛けられた。
そのパソコン教室は大手の電気メーカと提携している教室で県内に何店舗かを受け持って複数名のインストラクターで持ち回る形だった。
教室のオーナーの面接を受けた私は顔パスで採用された。実技試験も何もなかったのだが「見ればわかる」と言われて何回かの実地見学の後、実践の場が用意された。パソコンインストラクターの経験などなかった私は「ほんまかいな?大丈夫か?」とそのオーナーの見立てを疑ったが、オーナーの目は正しく私はインストラクターの仕事を難なくやってのけることができた。パソコン教室の経験はなかったが病院で看護婦さん達を指導した経験とその時身につけたパソコンの知識は病院の外でも十分通用する実力だったのだ。
特にMacのわかるインストラクターは少なかったので重宝がられた。ただMacだけだと教室のコマ数が少ないのでWindows系もやりませんかと次々に受け持つコマ数は増えていくことになる。
このパソコン教室の経験で、「初心者のパソコン操作のサポート」「インターネットに関わるソフトの指導」「HP作成や画象作成の技術と知識」などなど、私のパソコンとネットの知識は幅を広げたし、人に教えるという技術を身につけることもできたのだ。
さらに、
パソコン教室の仕事は、毎月シフトで決まるコマ数に限りがある、シフトの入らない日もある。インストラクターの仕事の単価は申し分なかったが(当時の一般的事務職の倍はもらえていた)1日の稼働時間数は4時間くらいと少ないので日給としては事務職の1日分と同じだ。
シフトが入らない日の有効利用と更なる生活費確保のためもう一つの仕事を探した。これも不思議な縁が繋がって、あるビジネスカレッジでその学校の広告を作るオペレーターの仕事が舞い込んだ。こちらは実技試験があり結果はギリギリだったが、持ち前の明るさと前向きな気質を買われて採用となった。
かくして週の半分をパソコン教室で教え、残りの半分をMacで広告を作る2足の草鞋での仕事体系が確率した。合わせてもらえる月の手取りは、マンションの家賃や光熱費を含む生活費を賄うのに十分な金額だった。どちらも時給の単価は高かったので、時間的にも余裕があった。
臨床検査技師という資格を取得した職に助けられて田舎での生活を送ることができたのだが、今度はその病院勤務時代に培ったパソコンとインターネットの知識と力で稼ぐことができることになったのだ。
ほんとうに人生は面白い、何がその場を切り開くアイテムになるかわからない。
「思考は現実化する」はもはや奇跡ではなくなった
実は私は広島に住居を移した時から漠然と、
「デザインの勉強がしたい」
「パソコンのインストラクターになりたい」と
思っていた。
後付けと思われるかもしれないが、本当にそんな自分をイメージしていた。
なので、古着屋さんで見つけたブラウスを「これはいつかインストラクターになった時に着よう」と買って持っていたし。画材店に行って白いキャンパスや筆を購入したりしていたのだ。
そのイメージはどちらともがそんなに時間をかけずに現実となった。
今までの人生の過程で、
「思考は現実化する」
これってありかも〜と薄々感じていた私は、
この頃には意識して、自分がなりたい未来をイメージすることをよくしていた。
手帳に、買いたい物や行きたい所を書き留め
さらには「なりたい未来」をあれこれと記載するのが習慣になっていた。
ことごとくとまで行かないけれど、
手帳に記載した内容は現実となってその一覧から線で消されるものが増えて行った。
思い描いたイメージは、速攻で現実化するものもあれば
何年もかけて、思わぬところで形になるものもある。
上記のインストラクターのイメージが実現したのは思い描いて半年後くらいだったが
5年くらいかかって突然実現した例ではこんなものもある。
離婚して息子と実家に帰った時に、
部屋に飾った一枚のポスターを見ながら、息子と交わした会話がある。
そのポスターは元夫が、保険会社時代に成績優秀者の表彰を兼ねたハワイ旅行の際お土産に買ってきてくれたもので、「ハワイ島のイラスト画マップ」だった。島全体を描いたそのイラストには海でサーフィン、山の上はスキーをしている様子が描かれていた。
息子「母さん、これどこ?」
私「ハワイ島というなまえの島よ」
息子「スキーもできるん?」
私「南の島だけど、標高の高い山があるから雪も降るみたいね〜」
息子「僕、家族旅行とかしたことないから、ここに行きたいなぁ」
私「いいよ、いつかいこう」
息子「いつ?」
私「そうだなあ、小学5年生になったくらいがいいんじゃない」
(当時まだ息子は幼稚園で、私はほぼでまかせにそう口走ったのだけれど)
そのポスターは気に入って引越し先でも飾っていたので、
「そう言えば、そんな話をしたなあ〜」と思いながら眺めていた。
そんなある日知り合いから
「娘がニューヨークにいて遊びに行くんやけど、一緒にどう?」と誘われた
ちょうど息子が5年生になった夏前だった。
私は息子に
「ハワイじゃなくてニューヨークになってもいいかなぁ」と許しをもらい、夏休み前に親子ともに大型連休を取得して、ニューヨークに飛んだ。
幸い息子の通う小学校は理解があり旅行のスケジュールや宿泊先を担任の先生に報告してお休みをもらうことができた。(立地している環境から、お金持ちのお家も多かったので)息子のクラスには父親が自家用ジェットを持っていて、休みを取って海外に行ってはお土産をみんなに配っている同級生もいたりして、それほど目立つ行為でもなかったようだ。ただ、「友達ん家に遊びに行くから1週間休みを取ってニューヨーク」というシチュエーションは流石に母子家庭のイメージとはほど遠く、同級生の親等には刺激的に映ったようだった「(母子家庭)らしくない」とたくさん言われた。
*「(母子家庭)らしいってどうゆうことやい」と、その頃Twitterがあったら思いっきり叫んでいそうだ。
旅行はイメージしたハワイ島ではなかったが、息子は初めて飛行機に乗り雲の上を経験し、自由の女神に会い、まだ被害後が生々しいグランドゼロ(同時多発テロ事件(9.11)の現場)を訪ねた。
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*補足
高校で、海外研修のあるコースを選んで入学した息子は、その海外研修で「ハワイ島」を訪れることになる。本来なら、西海岸(グランドキャニオン)に行く予定がその時に起こったオイルショックで飛行機代がまさかの高騰。予算的にハワイに変更になったといういきさつだ。このことで息子は当初の目標を実現させることになる。
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もう一つ私の印象に強く残る息子絡みのエピソードがある。
息子は高校受験で、家から自転車通学できる山の上にある高校を希望していた。その高校の文化祭に行ってから第一志望となり目指していた。この受験のエピソードも十分(思考は現実化する)のネタになるのだけれど、衝撃的なのは試験に受りお目あっての高校に通うことになってからの息子の話し。
当時、世の中は例のアニメ「◯ルヒの◯◯」のような学園ものが大流行りだった。大の本好きだった息子はアニメ化する前の原作本を読みあさっていたので彼の頭にある学園生活は、放課後部室で展開されるアニメ物語が渦巻いていたのだと思う。
まだ入学式前の春休みにこんなことを言い出した。
「母さん、僕、入学したら廃部になりそうな部活を選んでそこに入部して、その部室を乗っ取ろうと思うんだ」「そうしたら勉強道具もそこに置いておけるし」「そこで好きな音楽を聞いたりするんだ」
私としては「いくらなんでもそううまく行かないんじゃない?」と言うしかなかったが、流石にそれは無理だと想像したし息子の夢物語を鼻で笑って相手にしなかった。
ところが、、、、、、、、、、
彼のイメージ力は私の「いくらなんでも無理」のイメージ力を超えた。
入学後まんまと該当の部件(ぶっけん)に狙いを定め、入部し、
彼が語っていた思い描いた通りの現実が彼のものになった。
私はこの事実を目の当たりにして、
「思考は現実化する」の正当性を確信した。
この息子の一件で「言ってみるもんだ」のもつ力を知らされたのだ。
そう、
思い描くこと、それを語ること、できると信じること。
これは間違いなくその思い描いたイメージを現実化させる力がある。
私は段々とその力を強く信じるようになっていった。
このことは、これからの私の人生に本当に大きな力と不思議な縁をもたらしてくれることになる。
そして、その力を試される事象は
とんでもない難易度で
またしても私に課題(試練)を突きつけてくることになる。
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5: 闘病生活と人の繋がりを噛み締めた辛抱編:前半
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