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[りんごの転がり人生]6: またまた急展開新しい世界への旅立編(~54)

死神を振り切った私は、さらにパワーをまして
思考は現実化する
現実を生きていた。

旦那さんとは籍をいれ戸籍上の夫婦となった。

ただ、
まだまだ終わらないりんごの転がり人生、


<ここまでの記事>
以下の順にお読みいただくと[波瀾万丈ストーリー]がよくわかります。
はじめに[りんごの転がり人生]波瀾万丈を綴ります
7話_1夢を見つけて、夢を追いかける挑戦編[ミニ四駆]
1話順風満杯のバブル編「挫折を知らずに育ったりんごの青春」
2話前半幸せの絶頂から転がり落ちた潜伏編(前半)
2話後半幸せの絶頂から転がり落ちた潜伏編(後半)
3話地上に出てお日様を浴びた復活編
4話新たな旅立ちと世の中へ漕ぎだした冒険編
5話前半闘病生活と人の繋がりを噛み締めた辛抱編(前半
5話後半闘病生活と人の繋がりを噛み締めた辛抱編(後半)



息子の大学入試

子供は自ら育つと言うけれど、時が流れれば本当に育つ。
勝手にとまでは言わないけれど、それなりに自由に育つ。
「ひたすら息子にご飯を食べさせるために働いた」そう言い続けて10年、おかげさまで元気に大きくなった。夢も希望もそれなりに抱きながら育った。その間、私にかけがえのない時間と思い出をたくさん与えてくれた。

そんな息子も高校から大学へ。

息子の高校入試は「第一次選抜」いわゆる推薦入学での合格だった。
(つまり、学力テストがほぼ必要ない状態で第一希望の高校に入学できた)このことに気をよくしていた息子は大学入試もあわよくば「推薦」という名の恩恵に預かりたいと思っていた。

なので、高校1年の時からそれなりの努力を積み重ねたのだ。
まず、無遅刻無欠席、問題のない生活態度。
そして、一番の力の入れどころはなんといっても【内申点】の獲得。このための対策は中学同様全ての教科(特に副教科)で気を抜かないこと。
そして、得意教科の徹底強化だった。息子は理数(物理と数学)が得意だったのでそこをひたすら磨いた。そしてこの作戦を制覇した。

結果、3年生の春には国立大学推薦に必要な内申点をはるかに上回る点数を叩き出し、お墨付き状態で推薦入学の資格を手に入れたのだ。

しかし、当時大学で流行っていたのは「AO入試」という入試制度!。推薦入試とは一味違う合格基準が必要だった。志望した地元の大学の学部もこれにもれず、推薦という名前の枠はなく「AO入試」での合格を勝ち取ることが余儀なくされたのだ。

幸い、担任も物理や数学の教科担任もとても協力的かつ頼りになる先生方で、息子は受験に関してあらゆる面で先生方の協力と徹底的な受験対策を受けることができた。

結果、合格者数10名の狭き門を無事くぐることができ、お正月前に合格通知を手にしめちゃくちゃ長い春をゲットしたのだった。


大工になりたいとか
トレジャーハンターになって世界を巡るとか
海でウニを養殖するとか

小さいころからあれやこれや将来を語ってはいたが、今のところ大学に行き「工学部」を選択し、SEになってゲームを作ることにしたらしい。

コンセプトは「笑顔がみたい」
副業?にしている手品は「目の前にいる人の笑顔がみれる」。
ゲームをつくると「よりたくさんの人を笑顔にできる」とのことだそーな。頑張れ!と思った。

余談だが、どうせなら最先端を学ぶのがよくない?と入試前年の夏に「筑波大」のオープンキャンパスに3人で出かけたりもした。でも彼が選んだのは、地元の広島大学だった。山の中に作られた自然に囲まれたキャンパスが気に入ったらしい(それと何故か広島の地を離れたがらなかった)。

私と旦那さんはひそかに関東の大学に行ったらみんなで引っ越ししようかなんて冗談交じりに言ってはいたのだが、その野望はかなわなかった。


こうして大学入学後も地元に残った息子は自宅からキャンパスまでJRで通うことにして、高校時代よりもさらに早起きの生活が始まった。毎朝5時代に家を出る電車で通学するようになったのだ。
大学生が早起きするのは私の予定にはなかったのだが、通勤で電車が混む前にゆったり座って電車に乗りたい。早くキャンパスについて部室でまったりする時間を楽しみたいとの意向だった。
しかしさすがにその時間にあわせて朝食を作るのは夜10時まで働いて、12時に晩御飯を片付ける私には難しい。朝食作りは勘弁してもらった。代わりにった安くて美味しい学食の朝食が彼を支えてくれた。

奨学金をもらうことになったし、公立の大学の授業料分くらいは長年使い込まずに貯めていた児童扶養手当の預金でなんとかなりそうだった。
また、高校時代から続けているマクドナルドのバイトのおかげで息子へかかる経費は0円になった。


引っ越しと新しい車

息子が大学に入学する少し前、我が家は引っ越しをした。
ちょうど私が3回目の手術で入院中に、ベットの上でネット検索中にみつけた公団のマンション。
いつも散歩で通りながら、「ここに住みたい」と思っていたレンガ風の外壁が魅力的な建物だ。でもそこはいわゆる売マン(販売用のマンションション)で賃貸物件ではなかったのだが、たまたま持ち主が貸家として賃貸していた部屋を見つけることができたのだった。

4階建ての3,4階部分を使ったメゾネットの間取りで、4階部分には4畳半ほどの広いバルコニーが設けられていて、今のマンションとはちょっと視点がかわるが海の眺めは充分満足のいくものだった。宮島を含む夕焼けをゆったり眺めることができる時間が想像できた。
一番私の心をとらえたのは敷地内に緑が多かったこと。1,2階を使用するタイプの部屋にはその敷地内に庭がついていて、どこの家も木や草花を植えていたし、マンションの共有敷地にも至るところに木が植えてあったり、白柳やレンギョその他の植え込みがあり緑が深く癒される空間が多くあったことだった。

家賃もいままでのマンションとほぼかわらず、入院中に外出届けを出して見学にいったのだが、その日に契約を決めた。
この引っ越しで一番恩恵を受けたのは旦那さんだった。念願の自分の部屋を手に入れることになったのだ。その部屋は「ガンダム部屋」(=プラモやジグソーが所せましと飾られたため)と呼ばれるようになる。
息子も一まわり広い部屋を確保し、我が家のシンボル家具ともいえる大きな本棚を自分の部屋に設置してお気に入りの単行本を並べた。
私は専用の部屋を確保することはできなかったが、ベランダにゆっくりできるデッキを作りテーブルセットを置いて、海を眺める時間を楽しむスペースを持つことができた。

引越しと合わせて、長年頑張ったシビックが少しギシギシと泣き始めたので、新しい車に買い替えることになった。選んだ車は新車の「Crーz」(HONDAのスポーツタイプの車)。ちょっと背伸びをした感はあったが、旦那さんはタバコを止め、大学進学してから不要となった息子への経費とあわせて車の支払いに充てなんとか支払いの目処もたったのだ。


「岡山に行ってもいいよ」と旦那さんが呟いた


そうして、またあっと言う間に月日は流れた。
この日々の中で、旦那さんの両親が相次いで亡くなられた。いままで年老いた両親の傍にいたいと広島から外に出ることに躊躇していた旦那さんがある日。

岡山に行ってもいいよ

キッチンの換気扇の下でタバコを吸いながらそう呟いた。

意外なその申し出にそんな気はさらさらなかった私は、ちょっとだけたじろいだが、岡山の実家を思った。

岡山の実家には私の母が独りで住んでいる。決して元気とは言えない状況もあったので帰りたいのはやまやまだった。今までもそれらしい話が出たことはあるが、田舎すぎて仕事がないのがネックで現実の話にはならなかった。

この時も「追い風が吹けばね~」といいながら実現の難しさを思っていた。ただ、いざという時のために引っ越し代金を貯めようと私は小さな積み立てをはじめた。


追い風は突然吹いた、それも突風だった


追い風は突然吹いた、それもとんでもない突風だった。

私と旦那さんが通う職場が無くなる事になったのだ

倒産とか、廃業とか、そういったことではなく
単なる経費節減のための事務所閉鎖(統合)だった。

私と旦那さんの勤めていたのは大手の通信会社。その系列会社の業務で扱っていた「インターネットプロバイダー事業」は、名実ともに日本一の規模と会員数を誇っていた。だがインターネット人口の頭打ち、モバイルへの流出で固定回線用のプロバイダー契約数は伸び悩みの状況だった。勤め先は契約者のためのテクニカルサポートを請け負うコールセンターだ。実は同じ業務を請け負うセンターが全国に3か所存在した(もしもの時のリスクヘッジを考え分散されていたのだ、東北を襲った地震と津波の際にはこの分散により業務をとどこおりなく行うこともできた)。だが、経費節減は時代のながれ、閉鎖するセンターの選定で私たちの部署に白羽の矢が当たったのだった。

知らされたのは秋の終わり、閉鎖は翌年の春とつげられた。

その時の待遇は旦那さんも私も契約社員の身(正社員ではないがそれなりの待遇を受けていたので)、事業所閉鎖に伴う身の振り方については会社から手厚い便宜がはかられた。
選択肢は3つ
・同じ会社の別の部署への転職
・同じグループ会社の別の部署への転職
・退職して再就職(これには民間リクルート会社のサポートが付けられた)


身の振り方の選択は迷った、本当に毎日心が揺れた。

何度も決めては覆り、再論議となった。
決めては迷うを繰り返した結果、私と旦那さんは退職&再就職を選んだ。

これを追い風ととり、飛んでみることにしたのだ。

かくしてお正月の時点では岡山への転居は揺るがないものになっていた。
年明け早々に引っ越し屋さんへの予約も完了させた。

ちょうど私の積み立ては引っ越し代金やそれに伴う諸々の雑費を賄えるくらいには溜まっていたのだ。

ただ次の仕事のことは何も算段はなかった。
「まあ、なんとかなるだろう、リクルート支援もつくし」
一度無計画の引っ越しを経験している私には、根拠の無い自信がとてつもなくあった。
なのでこの旅立ちに不安はなく、まして楽しみと希望に満ちていたのだ。

仕事を辞めて田舎に帰る。
この事実について
・仕事をやめることへの大義名分が立つ
・再就職の支援がある
・失業保険は速攻で申し分ない期間支給される
これらの恩恵があることが本当にありがたかった。

自分達の勝手だけでこの決断をしたらこの全てが無かった、そう思うと
吹いた風はどう考えても「追い風」だったのだ。

***
私はこの職場閉鎖の事実をその後ネットビジネスを始めた際に、アクシデント的な扱いをして、悲報として描いている。そうすることにした理由は、突然職場がなくなることを「悲劇」として演出することで岡山に帰ることになった経緯、ネットビジネスを始めることになった理由としてこのうえない物語として語ることができたからだ。(嘘はなにもない、とらえ方、言い方、表現の仕方の違いそう割り切った)
***


それぞれの旅たち

既に、大学を卒業して地元のIT企業に就職していた息子は、広島に残り一人暮らしをすることになった。私と旦那さんは岡山の田舎で築150年超の私の実家へ移り住むことになる。

息子と2件分、引っ越し業者の予約をとり、2月始めにはあらかたの引っ越しを終えた。

息子が生まれてから23年、はじめて別々に暮らす時が来たなぁと。
もう社会人となった息子の引っ越しについては、手続きや段取りを全て息子に任せて口も手も出さなかったが、なんとかなるもんだと。それどころか自分達よりあれもこれも気前よく買いそろえる彼の経済力が羨ましかった。

職場の業務は一応3月までだが、たまった有給を消化し岡山と広島をいったり来たりしながら慌ただしく過ごした。岡山に帰ればひたすら運び込んだ荷物の片付けや古い家の掃除をし、広島では引き継ぎや残務におわれる職場に通いながら、最低限の生活品を残したガランとしたマンションで過ごした。

3月末の日に業務を全て終えて職場が閉じるのを見届け、不動産屋さんにお部屋の鍵を返して、私と旦那さんは最後の荷物を車1台に積み込み広島を後にしたのだった。

私にとっては息子と二人広島の地にに舞い戻ってから16年目の春。
毎日海を見ることができる生活に別れを告げた日になった。


文字通りプー太郎の半年間

岡山に帰った私と旦那さんは、
部屋の片づけや自分達の暮らしを始めるための手続きや段取りにおわれた。行政の手続きや、諸々の契約類の住所変更や、新規申込。
今まで幾度もしてきた作業だった。これが最後になるかなぁ確信はなかったけどふとそう思った。

転がり込んだ実家は古い家だが、磨けばそれなりに住み心地はよくなった。

なによりありがたいのは光回線の整備がされていたこと。近隣の使用率が低いのか速度も申し分なかった(^▽^)。

季節は春、プー太郎の旦那さんと私は桜が咲きだすと毎日のように近隣の名所を巡った。桜が終わると一斉に山々が目覚める、新緑の輝きは目に染みた。

会社から離職票が届き、職安で手続きを済ませる。失業保険は申し分ない額と期間の支給が約束され、生活の不安もない自由な毎日がそこにあった。

再就職をお世話になるリクルート会社への挨拶と手続きも済ませたが、引っ越し後の片付けを理由にしばらくはのんびりすることでリクルートの担当とも話がついた。

夏の始めにかねてからの希望だった
長野の諏訪神社を目指す旅を計画、せっかくならと行ってみたいところをふんだんに盛り込んだ2,000キロのドライブ旅行を決行しプー太郎生活の打ち上げとした。

その他近所付き合いや、旦那さんの銃免許の取得と二人の狩猟免許取得&猟友会入会ナドナド。全てのことはとてもスムーズに運んでいった。心配していた田舎ならではの軋轢(あつれき)や人間関係的な弊害も全くなかった。どちらかというと若い世代の参加は地域にとってもあらゆる分野にとっても歓迎を受け、本当に暖かい、友好的なもてなしを受けたのだ。

都会育ちの旦那さんが田舎暮らしになじめるか

それが最大の懸念事項だった私としては、嬉しい誤算になった。
この地を離れたくない
半年ほど経った時に旦那さんはそう呟いた。

この言葉をきいて、私はこの地に根をおろす決心をした。


プーからの卒業

「そろそろ仕事探しを」と夏の終わりころ重い腰をあげた(^^)

リクルート担当に話を持ち出し就職活動を始めることになる。

この年齢(50歳超)からの再就職、条件はきびしい事は重々承知していたが、

イメージしたことは現実になる
この生き方が、人生の基本原理になっていた私は妥協しなかった。

リクルート担当に告げた希望は以下だ。
インターネットとデザインに関わる仕事がしたいです
作る仕事と教える仕事を両方やりたいので、2つの仕事を掛け持ちします

50過ぎの、
女性で、
目覚ましい経歴や資格があるわけではなく、
住まいはド田舎で、

「いったい何を言っているのだ」

とリクルート担当の心の声(叫び)が聞えそうだったが、
おかまいなしの私は始終楽天的だった。

側(かたわら)で、あーでもこーでもとなっている旦那さんを横目にのほほんとしながら、ある日ハローワークの求人票をめくっていてみつけた募集。それはデザインを教える職業訓練校の講師の仕事で週3日の非常勤の勤務、厚生年金はなかったが単価等の条件は申し分なかった。

一応リクルート会社を通して申込を行ったが、事業所から職安を通さない申込は受け付けないと言われ、ハローワーク経由で履歴書や職務経歴書を送付し、面接を受け、そして採用が決まった。

最初の就職活動の応募で決まったので、失業保険の支給期間はまだ半分残っていた。一応就職した旨の手続きを取ろうと申請をしたのだが、その業務は就職の条件に必要な週の規定時間を満たさなかった。つまり「就職」の扱いにはならず、私の失業状態は継続となった。つまり働かない日は失業保険が出る扱いとなったのだ。

もちろん、残りの期間は「作成のための仕事探し」を続けることが条件だが、金銭的にかなりゆとりのある半年間を過ごすことができたのだった。
一応、仕事を見つけたい思いはあったので、「HP作成」や「広告作成」をキーワードに仕事探しを続けた。街(岡山市内)まで出れば週の残り時間を埋めるパートの仕事はなくもなかったが、業種や業務内容的にこれならと思える仕事には巡り会うことができなかった。

一社、めぼしいところを見つけて職安担当に連絡をとってもらったが、担当者との連絡がつかず、なんとなく「縁がないなぁ」と思って見送った。

そんなこんなで、失業保険を満期までもらい私のプー太郎生活は終わった。


旦那さんは数社の面接や、その次の就職活動を繰り返した結果。岡山市内で家電量販店のパソコンサポートを請け負う会社へ就職が決まった。実家から60キロの遠距離通勤が始まることになった。


いよいよ、第7章
ネットビジネスとの出会いへ

[りんごの転がり人生]7_1:夢を見つけて、夢を追いかける挑戦編「りんご夢への挑戦!ミニ四駆」


[りんごの転がり人生]7_2:夢を見つけて、夢を追いかける挑戦編「りんご夢への挑戦!ネットビジネス」


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