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水墨画に反映される禅仏教の教え:この一瞬を生きる/水墨画の右脳、左脳のバランス

 夏の夕方の空。上から淡い青色、それに地平線からの穏やかであかるい橙色が混じって、うす紫色の雲が中間にのびやかに拡がっている。
目に入った瞬間、うれしく幸福な気持ちでいっぱいになった。
「我々の人生は、こんな美しさに出会って喜ぶためにあるんじゃないだろうか。日々あくせくするのも、こんな幸せな時間のために。」と思った。
 
 しばらく眺めていたが、ほんのいつの間にか思考はまったく違う事を考えている。これほどの人生の成果を目の前にしっかりと見つけても、その幸福に集中していられる時間はわずかだ。

 その後も、光と色が変化してしまうまで、ずっと空を眺めていた。美しさにもう一度浸ってみる。とても幸せだ。しかし、最初のあの強いインパクトの中にはもう、戻れないでいた。

 禅では、人は一瞬一瞬の中に生きる、という。水墨画をしていると、その意味をかみしめる事がある。

 一瞬とは、脳波のひとパルスのようなものなのだろう。そのひとパルスごとに意識があり、その意識は私たちにとって、感情になり自我になっている。自分が存在するという事は、この脳波の一つ一つの瞬間を感じ取っている事になる。---そんな説明を聞いた。

 美しい夕空を見たその瞬間、脳にもその衝撃的な美しさの衝撃が伝わったのだろう。そのパルスは、しばらく脳のその部分を刺激して楽しんでいたが、衝撃の余波は他の部分の脳も次々と刺激していくのだろうか。そして、私は次々と取り留めもないことを考えていた。

 夕空を見たごく最初に感じたあの感動に戻ろうと試みた。今度は、まったく別の日常で味わった感情、出来事の記憶、を様々に辿らなければ、もう一度最初の感動に戻れなかった。それは下から少しづつ台を積み上げて、その頂点にある「感動」までようやく手を伸ばして届くような、かなり辛抱のいる行動だった。最初の衝撃的な感動も、ただ偶然その時に起こったことではなくて、今までの些細な日常の積み重ねのうえに初めて出来上がった体験なんだ、とでも言う様だった。


 水墨画のお稽古をする時に、何度も同じ絵(モチーフ)を描く。こんな事をいうと、同じ絵を延々と繰り返し描くなんて、いやな奴らだなぁと思われる向きもあるかもしれないが、実際には同じように描けないし、描くごとに面白い発見があるからやめられないものだ。

 しかしながら、何度描いても、後の方でどんなに素敵な筆さばきが出てこようとも、最初の一枚の凄さ、趣きの深さには叶わない。それはちっともうまく描けていないかもしれない。何の絵だかすらも分からないかもしれない。それでも、最初の一枚目が結局、いちばん胸に訴えるものがある。じんわりと、その描く人のよさが表れている。

 お稽古場に来るまでに、通り越してきた、様々なこと。電車からみた外の風景かも知れないし、それも見るともなく見ていただけかもしれない。こうした些細な、さまざまな積みかさねの最後に、水墨画が目の前にある。そこで墨の作り出す陰影のおそろしいまでの美しさ、描かれるものの不思議な生命感に触れて感動でいっぱいになる。自我も忘れてしまうくらい、水墨画のもつ魅力はすごいものだ。そして、「1枚目は練習の前の手慣らしだ」と思って期待しないから、考えたりして別の脳波を刺激しないでいられる。本人も特に自分が今感動しているとまでは考えない。

 つみ重なった体験の量にもよるのかどうかまでは分からないが、感動したまま筆を動かし、期待せず、自我の障りのないままに、内面のよさがにじみ出る作品を描く。

 もう一度同じように描こうと思っても、同じように日常を送り、同じ体験がなければ、結局この同じ想いが出てこないだろう。まさに一瞬一瞬を生きていることが、目でみてわかるように体感してしまう。


 ところで、水墨画の絵の趣きは、右脳が作り出しているように感じられる。一方、筆を扱う技術は、左脳が分析して丹念に磨き出してる。この趣きと技術の両方があって、水墨も絵になる。我々は日々お稽古をしながら、このように脳のバランスも訓練しているのだろう。



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