見出し画像

野菜をよく食べるのは、罪悪感が消えるから ー免罪的野菜摂取論ー


○私にとっての野菜とは「免罪符」

私にとって野菜とは何か?
あえて強引に一言でまとめるならば「免罪符」である。

罪の意識に苛まれる哀れな子羊を救済する食べ物、それが野菜なのである。安価で気軽に手に入り、食べれば罪の意識が薄れていくありがたい存在である。
もしこれが紙で出来ていたならばマルティン・ルターが激怒しながら飛んできそうだが、野菜なので大丈夫であろう。

では、私の抱える罪悪感とは何か? 罪とは何か? それは不健康促進罪である。

○食事と健康と罪悪感

食事と健康は常にワンセットで語られる。医食同源という言葉などまさにその極みと言える。
日々の食事において「うまいかまずいか」だけの判断や情報で過ごす事は、案外出来ない。

「いやそんなことはない。自分は食事などうまいかまずいかでしか考えないし、考えたくもない」

という反論が0秒で聞こえてきそうである。なぜなら、私が元々そういう考え方の人間だったからだ。しかし、あえてその反論に問おう。

「本当にそう思っているのか? それは本心か?」

○野菜が苦手だった、しかし摂取したいという感覚は昔からあった

私の野菜への苦手意識は、割と長くあったように思う。今思い返せば、下手な調理法や苦手な味に出会ったが為の苦手意識が、野菜というカテゴリーそのものに対する苦手意識につながっていたのだと思う。
だが、食事とは極論、生きていく事に直結する。人間は根源的に飢えへの恐怖心を持つというのが個人的な考えである。
飢えへの恐怖心から、うまいもの以外は食べないという行動に振り切れる人間は案外少ない。
偏食家でさえ、いやむしろ偏食家こそ、無意識の内に様々な「このままで大丈夫か?」という不安が、罪悪感として心の隅に積もっている事は多い。

○栄養不足は、カロリーだけではない

栄養=カロリー、と認識される時代があった。有名な「まんが道」にも、これを象徴する一コマがある。

しかし、現代人の我々は栄養=カロリーとはならないことを、なんとなくだが知っている。小学校で習ったうっすらとした知識の上に、更に脂質だ糖質だ炭水化物だ、ビタミンだミネラルだ必須アミノ酸だ、DHAだグルコサミンだプロテインだと、同列で扱うべきでない用語が健康情報の名の下に世界中溢れている。
健康食品という一大ジャンルの存在は、そんな健康意識への危機感、非カロリー的な栄養不足と飢えへの恐怖心、そしてそれらに対応できていないかもという罪悪感により、ここまで巨大に膨らみ浸透しているのではないだろうか。

○野菜を食べる事にした

と、ここまで書いたが別に栄養学の話をする気は毛頭ない。私は、私と野菜に関する話をするだけである。これを食べろあれを食べろという場ではないし、言う気もない。
ここで私が言いたいのはただひとつの事実である。

私は罪悪感に耐えられなくなったし、そもそも罪悪感を抱くのにもうんざりした。
だからあの手この手で野菜を食べる事にした。

しかし、いざ腹をくくって調べてみると、やれ野菜をとれ、いいや野菜をとるな、大量にとれ、いいや少量でいい、これだけとればいい、いいや種類を限定せず様々にとった方がいい、と見事にバラバラな説で世は溢れかえっている。こんな中で、何を指標にすれば良いのか?

こういう時、私は歴史に学ぶようにしている。

○流行は、大抵すぐ時代遅れになる

免罪符の話をしたせいで、ルターがまだこっちを見ている気がする。
なので中世ヨーロッパの医学事情をここに記して許しをこう事にする。とは言え、実はWikipediaに「中世ヨーロッパの医学」というそのまんまの記事がある。

ただ、細かい話が多いので、下記を一読してもらった方が分かりやすいかもしれない。

読めば分かる通り、ずいぶんととんでもない事が平然とやられていた。しかし、当時としては最先端の流行の医学であった。
無論、科学的根拠と膨大な実証・実績の結晶体たる現代医学を否定するつもりは毛頭ない。むしろ日本の医療を私は厚く信頼している。
これは良い悪いの話ではなく、要はどれも絶対はないという視点で、盲信してはならないという話だ。
数ある情報の中で「自分は」何を選ぶかである。食に関しては尚更だ。

では、私は何を重視しているか?
脳科学・精神医学実績である。

肉体的健康は、健康長寿者に関する記録があるのでこれを参考にする。
心理的健康は、精神医学による実績があるのでこれを参考にする。

これだけである。実にシンプルで迷わない。心身共に健康を目指した結果こうなっただけである。万人にすすめるつもりはない。あくまで私の一例である。

○野菜食べていれば概ねどうにかなりそう理論

歴史的背景と近代科学の関係から、野菜を食べない長寿健康者を探すのは難しい。だから野菜を食べたら何もかも良くなるとは思わない。しかし、これ以上に信頼出来るデータが私には見つけられない。医学の常識、科学の常識は常に覆されたり再評価されたりやっぱりダメでしただったりの繰り返しである。果ては、やはり原始時代の生活が一番だとか言われては、もう実績ベースで考えるしかない。

長期的な健康は長寿健康者に学ぶ事にする。
そして、直近の健康は脳科学・精神医学に学ぶ。それはなぜか?

文明と社会は100年前と比べ激変している。
山中でのどかな村で暮らすならそれでいいかもしれない。しかし現代社会で雇われの身として働く現時点において、果たして100年前の人々と同じ手段だけで、健康的な生活は送れるのだろうか?
はしくれとは言え私も頭脳労働者である。肉体だけではなく、脳を鍛え脳の体力をつけておかねばなるまい。健康とは食べて動いて寝るだけの身体を作れれば良い訳ではない。脳を少しでもマトモに健全に動かす事、これがむしろ私にとっては重要かつ不可欠なのである。

長々と書いてきたが、結論はシンプルである。

私はなるべく野菜を食べた方が良いと思っている。その為の理由が揃っている。

これは、まごうことなき事実であり、今ここにある現状である。
あとは具体的なやり方を考え実行し、調整していくだけで良い。ここからは、実際に私の行っている方法を列挙していく。

○野菜摂取は調達と調理法次第でどうにでもなる

目的の為には手段を選ぶな、従うべきは法律のみ。これが君主論の基本だという。
私もまた自分の心身という領土を持つの君主と言えるかもしれない。ならば、これに従うのは有効だと言える。良い君主になるよう努めねばならない。他に管理者はいないのだから。
以下に、私の具体的な野菜摂取法をまとめる。

・いざとなったら野菜ジュースで良い、というセーフティーネットを作る

野菜ジュースには色々議論も好みもあるだろう。私はセーフティーネットとしてこれを使う。まさしく免罪符である。

・ストックを作り、安定供給できる状態をキープする

生野菜は、モロに鮮度が味に直結する。なのでほとんど食べない。
また、基本的に買ったその日かその翌日に調理するようにしている。余ったら日持ちするものだけ冷蔵庫に入れる。しかし長くても1週間以内には調理するようにしている。長期保存できる野菜かどうかは関係ない、いつ買ったものなのか分からなくなるからだ。
調理した野菜料理は、直近で食べるものを除きすぐ冷凍する。大概はスープにして冷凍する。余ったら切ってジッパータイプの袋に入れて冷凍するか酢漬けにする。
冷凍野菜は汁物に入れれば大概なんとかなる。

・常識を疑い、古今東西に学ぶ

味噌汁に何を入れるか?
私は基本的に、自分が好きなものは何でも入れる。むしろ入れて実験してみたくなる。
そうすることで、まるで味噌汁のイメージとはかけ離れたものから、むしろなぜこの組み合わせが今までなかったのだろうと不思議に思うものまで様々なものが出来上がる。
後で調べてみると、昔特定の地方で行われていた食べ方だとか、見知らぬ国では味噌こそ使わないが伝統的な組み合わせだったといったケースも多かったりする。
試し、そして調べる事で、自分がいかに狭い常識の中で料理をしていたのかが分かる。目の前の食材と楽な調理法から、あとは古今東西のやり方を学んでいけば、手持ちの小さな常識から脱出し自由になる事が出来る。

○私は野菜が嫌いなのではない、個人的にまずいと思う味があるだけである。

特定の葉物野菜は、煮込みすぎると野菜特有のえぐみが出る。私はこれが苦手なので、スープにする野菜の選定と加熱方法は少し慎重に行う。
ゴボウや小松菜のような、えぐみや主張の激しい野菜は基本入れない。茎の多い野菜もなるべく避ける。
加熱は電気圧力鍋を使うが、圧力モードは使わない。野菜がグズグズになるからだ。あまり好きな味ではない。
とはいえ生煮えのニンジンなど食べられたものではない。低温調理モードも何度か試したが、加熱時間が長くかかる為か、その間に苦手なえぐみが強まるし、野菜が程よく柔らかくなるまでの時間が具材量によってかなり異なる。
そこで私が使うのは無水鍋モードである。
30分で設定し、あとは状態を見て追加加熱していく。食べるときに再度加熱するからと根菜類を生煮えにすると痛い目にあう。不思議と無水鍋モードでは野菜のえぐみが出にくい。
低温調理の方が野菜の旨味が出るというが、私は野菜の旨味よりも、野菜の苦手な部分の味を出さない事を優先する。
まずくなく、自分が満足する味を追求すれば良い。そのためには、時に素材本来の味を消す事もいとわない。

今までに様々な失敗をした。が、現在はおおむね成功している。
食材は基本変えていない。それなのにここまで(個人的に)うまいまずいの差が出る。
これは個人差でもあるだろうが、野菜という食材の性質なのだろう。野菜というのは簡単なようで、取り扱いひとつで味が変わる。
更に好みも人によって大分差があるように思える。苦味や酸味が好きな人間の野菜料理と、甘味塩気を好む人間の野菜料理ではまるで異なるだろう。それこそ、ラインナップから調理法まで。

ここまででもう気づいたかもしれないが、野菜とは非常に大きなくくりなのだ。その中で、個人的にうまいと思えるものも苦手と感じるものもあって当然である。
カテゴライズがあまりにも広いせいで、数個の苦手な味に出会ったが為に「自分は野菜が苦手なのだ」という意識を持つことはあまりにもったいない。
ダメなら他を試せばいい。色々と試せばいい。野菜とはそれだけ広大な、ただのカテゴリーにすぎないのだ。その懐の広さに甘んじて、こちらも余裕ある態度とワガママをもって向き合えばよい。

私は野菜が嫌いなのではない。
個人的にまずいと思う味があるだけである。
だから今日も、私は野菜を食べる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?