片思いと、チャーシューと、  【小話・2665字】

「あのチャーシューがあればなぁ」

 チャーハンを作っている途中で、トンコはつぶやいた。あのチャーシューとは、22歳の頃に足しげく通った中華料理店のチャーシューだ。
 そのお店は、某ベッドタウン近隣商店街の一角に今もあるはずだ。小ぢんまりとした店内には、2人席が2つ、4人席が4つほどで、カウンター席はない。おそらく、ご家族で経営されている。厨房には、50~60代ぐらいの男性の店主と、30前後のおにいさん。客席を切り盛りするのは、40~50代ぐらいの女性の方。このお三方の関係を夫婦とその息子というふうに勝手に思っているが、全く違うかもしれない。コロナがない頃の営業時間は、昼が11時から15時30分、夜は17時から0時30分。200円程度のおつまみの類いも充実しているから、日曜日には昼間からビールを開ける地元の常連客でごった返す。だから日曜日は、昼から夜まで休憩なく店は開いている。今は、どうなっているかは分からない。名前は伏せるが、飲食店の口コミサイトでの評価は3.0。口コミの中には酷評もある。トンコに言わせれば、評価はマックスの5.0。人それぞれ好みの分かれるところのようだ。

 トンコは週に1~2回ほど、そのベッドタウンに仕事で行っていた。用事を済ませてから、その店に行く。トンコが店を訪れるのは、ランチタイムのラストオーダーぎりぎりの15時になるかならないかぐらいの時間だ。だから、トンコがランチの最後の客になることが多い。おじさんとおばさんは片付け作業を済ませると、先に引き上げる。店内には、おにいさんが一人残る。

 この店のAランチは、しょうゆラーメン、半チャーハン、漬物が付いて500円。Bランチはチャーシューメンに半チャーハン、漬物で800円。Cランチは海鮮ラーメンに半チャーハン、漬物で1000円。このほかに、日替わり定食がある。トンコはいつもAランチを注文する。

「ご注文は?」と、おにいさん。
「Aランチで」と、トンコ。

 この店のおにいさんの話す日本語は、中国語圏の方のイントネーションだ。おにいさんは体が大きくて、色が白くて、若干ぽっちゃり気味。ぼそぼそしゃべる。韓国の俳優のパク・ソジュンを丸くした感じ。

 週に1回、多いときは2回、そこでお昼を食べていた。特筆すべきは、チャーシューだ。五香粉(ウーシャンフェン)の香り、とくに桂皮(シナモン)の香りが効いているチャーシューで、初めて食べたときは少しそれが気になったのだが、3回目にはその香りの虜になった。実際に何の香料が使われているかは、もちろん分からない。なんとも複雑な、それでいて包み込まれるような、香り豊かなチャーシューだ。
 そして、チャーハンもまた絶品。Aランチのチャーハンには、卵と長ネギのみじん切りしか入っていない。それなのに、とてつもなくおいしい。あの町に行ったらあのAランチを食べると条件づけされたかのように、トンコはその店に通った。

 そんなルーティンを始めて3カ月が過ぎようとしたある日、トンコは用事を済ませ、いつものようにお昼のピークを過ぎた頃にその店を訪れた。

「ご注文は?」と、おにいさん。
「Aランチで」と、トンコ。
「いつものね」

 トンコはハッと顔を上げた。おにいさんはトンコにやさしく笑いかけて、厨房へ入っていった。トンコは顔が赤くなるのを感じた。背中にじんわり汗をかいた。覚えてもらえた嬉しさと、気恥ずかしさとで、体中が熱くなった。

 これは、顔なじみ?

 行きつけの店があって、その店の店員さんが自分の好みを知っていて、「いつもの」で通じるものがあるというのは大人なのだと思っていたトンコは、大人の仲間入りをしたような気がした。そして、驚くべくは、いつもは卵と長ネギのみじん切りしか入っていなかったチャーハンに、なんと、刻んだチャーシューが入るようになったのだ。

 あっ、チャーハンにチャーシューが入ってる!

 心の中でトンコは踊った。おいしい半チャーハンが、さらにおいしくなった。トンコはすっかりおにいさんのことが好きになっていた。胃袋をがっつり掴まれたのだ。

 いつもランチタイムぎりぎりにやって来て、500円のAランチしか頼まない女。店側からすれば、少し嫌な客だろう。トンコが来なければ、もう店を閉めて休憩に入るところなのだから。それでも、トンコは通いつめた。

「ご注文は?」とおにいさん。
「Aランチで」とトンコ。
「いつものね」
「はい」

 トンコは恥ずかしくて「いつもの」とは注文できなかった。「Aランチで」、「いつものね」、にこり。これがおにいさんとトンコの唯一のコミュニケーション。そして、Aランチなのに、トンコの半チャーハンには、チャーシューが入っている。

 ある日のこと、いつものように食べ終わって店の外へ出た。空を見上げたトンコは、顔をしかめた。雨が降り出していたのだ。
「傘ないのに……」
 縮こまって歩き出そうとすると、おにいさんがトンコに声を掛けた。
「あの、これ」
 振り返ると、おにいさんは傘を持っていた。黒の大きなジャンプ傘だった。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
「はい」
 おにいさんはトンコに傘を渡すと、店の中へ戻っていった。トンコは大きな黒い傘でニッコニコの顔を隠しながら、帰路についた。おにいさんってば、やさしい。たとえそれが、どの客に対しても同じようにされていることだとしても、トンコはすっかり舞い上がっていた。

 後日、傘を返しに行った。「これ、ありがとうございました」とトンコが傘を返すと、「ああ、はい」とおにいさん。それだけ。お礼に何か簡単に缶コーヒーかお茶かジュースでも持っていけばいいものを、トンコはそういう気の利いたことができる女ではなかった。そして、いつものAランチ。トンコの半チャーハンには、チャーシューが入っている。

 その後も何度となくその店に通ったが、おにいさんとは何の進展もなかった。その町に行く用事がなくなってからは、その店にも行っていない。もう、十年以上経つ。おにいさんは、相変わらず中華鍋を振っているだろうか。トンコは自分でこさえた今一つなチャーハンを食べながら、おにいさんがサービスしてくれた、あのチャーシューを思い出している。


(註:この小話に、小さな飲食店さんに定期的に通っていたら、チャーシューをサービスしてもらえるようになったという表現がありますが、それは、政治家さんがなじみの企業に便宜を図ることを肯定するものでは決してありません。また、東京都の飲食店に対する時間短縮要請に対して、何か意見するものでもありません。)

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