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髪の毛 【与太子話】

 美容院にはあまり行きません。髪の毛を切りにいくインターバルは、だいたい半年ぐらいの間が空きます。

 髪にあまり興味がないというのもありますが、美容院がちょっと苦手というのもあります。さらさらストレートヘアでもないし白髪も出てきていますが、パーマもカラーもしません。髪型はいつもワンレンボブ。というか、おかっぱです。美容院に行ったら耳の下あたりの長さまでバサッと切ってもらって、肩にかかるぐらいまで伸びてきたらまたバサッと切ってもらうというのを繰り返しています。


■できることなら、ボウズにしたい


 洗髪にドライヤーにセットに、髪の毛というのはけっこうわずらわしいものがあります。だからもういっそのこと髪の毛全部バリカンで刈って、ボウズにしたいです。

 ボウズにしちゃいけないってことはなくて、私は髪型自由な商売をしているから、ボウズにしてもかまわないのです。

 けれど、今までボウズにしたことが一度もありません。

「まあいちおう女子だからね」
「え? なんでボウズにしたいって思っているのにしないの? すればいいじゃない」
「え? ボウズ?」
「ボウズは、ない」
「ボウズ、いいね」
「ボウズだろうが何だろうが誰も見てないよ」
「TPO的に大丈夫?」
「体裁ってものがあるんじゃない?」

 ボウズにしたいことを誰かに相談したらどんな言葉が返ってくるかを想像してみたら、上のようなこたえが頭に浮かんできました。人にどう思われるかを気にしすぎるのはよくないと思ったりもしているのですが、ボウズにしてみたいという願望がありながらできないでいます。なぜか。

■ヘアドネーション


 ところで、ヘアドネーションという活動をご存じでしょうか。

ヘアドネーション(英: Hair Donation)とは、小児がんや先天性の脱毛症、不慮の事故などで頭髪を失った子どものために、寄付された髪の毛でウィッグを作り無償で提供する活動。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 その活動をされている団体の代表の渡辺貴一さまという方が大変興味深いことをおっしゃっていました。

「圧倒的マジョリティーがマイノリティーに対して、ウィッグが必要だという無意識の押し付けになっているんじゃないのかと。」。


出典:



 ここでいう「圧倒的マジョリティー」とは、頭髪が生えている人たちのことで、それに対して「マイノリティー」とは、頭髪が生えていない人たちのことです。頭髪が生えている人たちが生えていない人たちに対して、頭髪があるほうが良いという、上にひいた記事の筆者様の言葉を借りると「善意の差別」になってしまっているのではなかろうかと。


 ヘアドネーション、とても心温まるすてきな活動だと感じていたのですが、その内にはこんな葛藤やジレンマがあったとは、と驚きました。そして、ナルホドと目を開かされる思いもしました。私はまさにこのバイアスの中にいるのです。

頭髪があるほうが良い。

ボウズは頭髪がほぼない。

ボウズにしたら良くなくなる。

だからボウズにすべきじゃない。

ボウズにできない。

 この記事を読んで、こういう考えが私の中にあるということに気付かされました。

 となると、「どうして頭髪があるほうが良いの?」を考えたくなります。頭髪がないとなぜ良くないんだろ。。

■どうして頭髪があるほうが良いの?



 その疑問の答えを出すために、頭髪がない状態であるボウズのメリット・デメリットを考えてみます。ちなみにこれは筆者(女性)の主観によります。

メリット

  • 洗髪が楽。水道代の節約になる。

  • ドライヤーの必要なし。電気代の節約になる。

  • セットの必要なし。ヘアケア剤等が不要になる。

  • 時間の節約になる。合理化やら最適化やら時短やらとせせこましい世の中なのに、どうして人間は頭髪を永久脱毛しないのか。余計な選択肢で頭を使わないために洋服は同じものを何着も持って着回していたというスティーブ・ジョブズ氏でさえ、髪を切る時間は削らなかった。不思議である。

  • ボウズ女子はちょっと目立つ。


デメリット

  •  冬は寒い。

  • 夏は日差しが熱い。

  •  頭をぶつけたときに痛い。

  •  外見で人を判断する人からのアタリが強くなりそうな気がする。

  •  ボウズ女子はちょっと目立つ。

 上に挙げたメリット・デメリットは反転させることもできます。メリットをデメリットと考えれば、自分のために使う時間を削ってしまうということになるだろうし、デメリットをメリットと考えれば、帽子・ウィッグ選びが楽しくなる、人間の真理に近づくいい機会になるということになるかもしれません。


 別の視点として、人と人との間にあるボウズの印象を考えてみたいと思います。例えば、ボウズの女性と道端ですれ違ったとします。ボウズの女性と道端ですれ違う機会はないことはないのですが、稀ではあります。そのときに、どう思うか。

「ボウズ女子だ」


 よくよく考えてみたら、これだけでした。それ以外はとくになにも思わないです。


 他方、自分がボウズ女性だとして、人と道端ですれ違ったときにどう思われると思うか。

「あ、ボウズ」
「え? なんでボウズ?」
「出家?」
「何かしでかした?」
「なんかあった?」
「病気かな?」
「失恋?」
「奇抜」

 別にそう思われてもかまわないような気がしないでもないのですが、人の目というのはやはり多少は気になってしまいます。悩ましいです。


 ざっくりまとめてみると、私の中には「頭髪はあったほうが良い」という極めて無意識的な悪意のない差別感情があって、それに加えて、ボウズにしたいと思っているのにできないでいるというのは、「頭髪がない状態になることで差別されたくない」という感情があるということなのだと思います。差別している自分と差別されたくない自分とがいるのだな。

 頭髪がない状態であるボウズのメリット・デメリットと、人と人の間にあるボウズの印象とを考えてみたことで、「どうして頭髪があるほうが良いの?」という疑問の私のなかの答えが見えてきました。私にとっての問題は、ボウズにすることで人にどう思われるかが気になるということのようです。そんなこと気にしてんだな私、と、改めて思います。いや、でも気になりはしますよね、人からの印象。多少は。


■多様性


 なにかを志向すると、その逆方向にあるものを排除することになりかねないというのは、なんとも悩ましいことです。例えば、多様性を尊重することは画一性を排除することになりやしないのかと。

 多様性を考える必要がなんであるんだろうって考えたときに、多様性を尊重しあうっていうのは手段であって、その先には、みんなが平等にしあわせになる権利を持つっていう目的があるんだと私は思います。だとしたら、多様性を認め合うっていうのは複雑で煩雑だから、もういっそのこと画一的にみんな一緒にしてしまえば、例えば、髪のない人はウィッグをつける、もしくは、みんなでボウズにする、そうすれば目的を達成するのには早いのではないでしょうか。なぜなら、どうしても人は人と比べてしまうから。例えば、日本のように銃規制がしかれている国に住んでいる私からすると、いつ弾丸が飛んでくるか分からないような状況下にいる人々はとんでもない不幸に見舞われているように見えます。。


 はい。だんだん迷子になってきました。例のごとく、私の頭のなかの道は樹海へと続いています。帰ってこられなくなりそうなので、このへんにします。



 いや、実は、つい先日、美容院へ髪を切りに行ったのですが、そのお店で通常1700円のカットを1000円でしてくれるというクーポンを頂いたのです。期限は6月末まで。今ならお安くボウズにすることができます。

 越えられるか、私のなかにある固定観念の壁。


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