見出し画像

ねじれの恋



きっかけは高校一年生の席決めくじ引きで、私が真ん中の列の後ろから2番目の席を引き当てたことだった。

「ねえ萌生めい、あたしと席交換してくれない?」

ちょうど私の真後ろ、つまり真ん中の列の一番後ろの席を引いた友人が、私の肩を叩いてそう主張した。

「別にいいよ」

「ありがとう!」

どの席に座るかということに特にこだわりのなかった私は彼女からの提案を快諾して彼女と席を交換した。

当たり前だが一番後ろの席は黒板から一番遠い。だから希望する生徒が多いのに、なぜか彼女は真ん中の席がいいらしい。もしかしたら目が悪いのかも、と思い至る。しかし私も目が悪いし大丈夫かなとちょっと心配になった。

葉方はかたさんよろしく」

ぼうっと考え事をしていたら、ちょうど隣の席に座っていた男の子から声をかけられた。

「よろしくね、桐生くん」

彼の名前は|桐生陸《きりゅう
りく》くん。つんつん頭がトレードマークの男の子で、見たところ明るい性格をしている。女の子とも喋り慣れているようで、クラスの女子と二人で下校しているところを時々見かけるほど。まだ高校一年生の5月で、彼について知っていることといえばそれぐらいだった。

これまでの男女別の「名前順」だった席が一気にガラリと変わり、教室の中に新鮮な空気が流れ始める。あまり喋ったことのなかった人と仲良くなるチャンスだ——たぶんこの場にいる全員がそう思っていた。

そして私はこの時、まさかこの席替えが高校三年間の自分の運命をまるごと左右することになるなんて思ってもみなかった。


最初の印象通り、彼は本当によく喋る人だった。

「英語の予習してきた?」

「え? う、うん一応。桐生くんは?」

「俺もざっと見ただけ。授業こえーな」

登校してから朝課外(九州の高校に通っており、九州では一限の前に一時間「朝課外」と呼ばれる授業が行われる)が始まる前にさっそく彼は話しかけてきた。

どちらかと言えば口数が少ない私だったが、彼に話しかけられた時にはなぜかすんなりと口を開くことができた。

まだ慣れない高校生活に、慣れない授業。進学校のため授業の進むスピードは速く、先生の話についていくだけでも必死で、中学校では一番や二番の成績だった人もどんどん置いてきぼりをくらっていた。私も不安と恐れの中で授業に臨んでいたのだが、ひょうきん者に見える隣の彼も同じように授業が怖いんだな、と思うと安心することができた。

それほど怖くない先生の授業の時は、彼は授業中にでも私に話しかけてくる始末だ。

「あー、あれ知ってるわ。俺、中学ん時塾で習ってさ〜」

「私も入学前にちょっとかじったところだ」

話の内容はいたって真面目で、授業についての話なのに、後ろの席で私たち二人が話しているのを見兼ねた先生が、「そこの後ろの桐生くん、うるさい」と軽く注意する。

「『桐生くん、うるさい』だって。私は怒られなかったわ」

「うわ、俺だけかよ、サイアク」

全然「最悪」そうじゃない彼の笑い顔がおかしくて、先生に一人だけ注意される彼がちょっぴり不憫だけどやっぱりおかしくて、授業中にもかかわらず私は一人わらけてきた。


彼と隣の席になってひと月が経つ頃には、彼と話すのがとても心地よく感じていた。

当時私は中学の頃二年間片想いをしてフラれた相手のことを引きずっていたのに、気がつけばもうその片想いの相手は頭から離れていた。その代わり、「今日はどんな話をするのかな」「また授業中に怒られたりして」と考えるのは桐生陸のことばかりになって。

1学期の期末テストが始まる頃には、桐生陸に恋をしている自分に気づいた。

あれだけ別の人に片想いをしていたのに。

こんなに簡単に、彼のことを好きになるのか。

自覚した時には、片想いの相手に吹っ切れたことが嬉しくて涙が出そうだった。しかしだからと言って、新しい恋が上手くいくとは限らない。このまま馬鹿みたいにくだらない会話をして友達どまり、なんてことも十分にありえる。

そう危惧した私は、期末テストが終わったら気持ちを伝えようと決意していた。


『ごめん、俺は今のままがいいな』

面と向かって告白するのが恥ずかしかった私は、メールで気持ちを伝えていた。しかも期末テストはまだ終わっていなかった。残すところあと一日、という時に我慢しきれなくて恋に現を抜かしたのだ。

彼からの返事を見た時の衝撃やたるや。どうして自分はいつもこうなんだろう。空気を読まずにテスト期間に告白をしてしまったとか、彼も自分のことが好きなんじゃないかって勘違いしちゃったとか、ぐるぐると頭の中を後悔が駆け巡った。私はフラれた。いつも自分に嬉しそうに話しかけてくる彼にフラれたのだ。だけど、フラれても席が隣なことは変わらない。明日学校に行けばまた朝イチで顔を合わせることになる。気まずいし恥ずかしい。ああ、どうして早まったことをしてしまったんだろうか……。

ろくに勉強もせずよく眠れないまま翌朝を迎え、期末テスト最終日、私は暗い気持ちで教室に入った。

彼がすでに席に座っているのを見ると、一気に心臓の鼓動が早まった。どうしよう。昨日のメールのこと、彼は絶対に気にしている。きっと今日は私と顔を合わせたくないと思っているだろう。今は社会の教科書をじっと見ているけれど、私が隣に座れば気まずい思いをするんじゃないだろうか。

この場から逃げ去りたい。

しかし今日は大事な期末テストの日。さすがにこのまま引き返して学校をサボるわけにはいかない。

緊張したまま、私はギイと椅子を引いて自分の席についた。彼と同じように社会の教科書を開く。今日はテスト、テスト、テスト……と必死に自分に言い聞かせる。でも、教科書の内容が全然頭に入ってこない。

ふう、と小さく息を吐いた。

緊張しすぎて呼吸をするのも忘れていた。もう今日のテストはきっとぐだぐだだ。こればっかりはどうしようもない——……。

「社会の勉強、やった?」

私が今すぐこの場から逃げ出したいと願っていた時、ふと隣から耳慣れた声がして、声の主の顔を見た。

桐生くんはいつもと変わらぬお調子者の表情で、「俺、今日のテストやばいわ」と笑う。そんな彼の姿を見て、一気に緊張が解けたのが分かった。

「ううん、全然。私もやばいかも」

「そかーお互い頑張ろうぜ」

「うん」

まるで昨日の告白などなかったかのように——いや、本当は彼だって告白のことを意識している。その証拠に、「おはよう」と声をかけてこなかった。でも、気にしてないよと言わんばかりに、私に話しかけてくれたようだった。

その優しさが痛くて、でも涙が出そうになるほど嬉しかった。


もう彼が好きだったことは忘れよう。まだ仲良くなってから一ヶ月しか経っていないんだし。私が恋を忘れさえすれば、すぐに今まで通りの関係に戻れるはずだ。

無事に期末テストを終え、家に帰ってからずっとそのことばかり考えていた。何度も自分に言い聞かせ、習い事のピアノのレッスンに行く頃には、もう自分は大丈夫だと強く思った。

ピアノのレッスンが終わると、母が車で迎えにきてくれて私はいそいそと車に乗り込む。いつもの癖で鞄からスマホを取り出し、メールの画面を開く。新着メールが一件来ていた。しかも、送り主は桐生陸。どうしたんだろう、と気になってすぐにメールを開いた。

「え……」

と声には出さずに、開いたメールを凝視する。


『昨日はああ言っちゃったけど、やっぱりOKってことじゃダメかな……。自分の気持ちを優先してなかった。今更こんなこと言うのもうざいと思うけど、もしよかったら返信ください』


そのメールを見た時、最初彼が何を言っているのかよく分からなかった。

やっぱりOKってことじゃダメかな。

何度もその一文を噛み砕き、頭の中で整理する。つまりそれって、「やっぱり私と付き合いたい」ってこと?

いったん断っておいてなんと都合のいいことか——とは思わなかった。だって彼にフラれてからも、彼を好きな気持ちまったく変わっていなかったから。

桐生くんが、私の気持ちを受け入れてくれたんだ……。

現実感が湧かずに、しばらくぼーっとメールの文面を眺めていた。そろそろ車は自宅に着きそうだというのに、うまく頭が働かない。

そしてようやく、自宅の駐車場が見えてきたところでお腹の底から甘い気持ちがぶわっと湧き上がってきた。

嬉しい。気持ちに答えてもらえたんだ。こんな幸せなことが自分の身に起こるなんて信じられない!

顔ににやけが広がらないように表情筋を引き締める。しかし、どうしても全身が喜びで震えるのを止められなかった。


翌朝、学校に着くと前日とはまた違ったソワソワ感が二人の間に漂っていた。

「あのさ、なんて呼んだらいい?」

最初に口を開いたのは私の方だ。「私たち付き合ってるんだよね」なんて恥ずかしいことは聞けない。遠回しな表現だったけれど、彼も私の言わんとすることを察してくれたらしく、「なんでもいいよ」と優しく答えてくれた。

「分かった。考えとく」

こうして私は高校一年生の初夏、桐生陸と交際することになったのだ。


彼との交際はとても順風満帆だったように思う。片想い期間がほとんどなかったにもかかわらず、彼への気持ちはどんどん大きくなっていた。同時に、彼も私のことを大切にしてくれているということが言葉や態度の端々から伝わってきた。

私たちは24時間、言葉通り四六時中お互いのことを考えて生きていた。

メールからLINEでやりとりをするようになると、毎日大量にメッセージを送り合った。学校でも顔を合わせるくせに、どうしてこんなに話すことがあるんだろうかと今では不思議に思うくらい、彼とつながっていた。私も彼も返信がマメな方だったので、メッセージは常に即レスで、まるで隣に彼がいておしゃべりをしているかのように1分おきにやりとりをしていた。

好きとか愛してるとか、彼はそういう些細な言葉を何度も私にくれる。大人になった今考えると恥ずかしくて絶対に口にしないようなことを連発して、それにいちいち感動したりキュンとしたり、思春期真っ只中の私にとっては毎日が刺激的で楽しくて仕方がなかったのだ。

「俺さ、萌生のことすごいと思っとるよ」

私たちはよく近所の公園で落ち合って話をした。ただ二人で並んで話すだけのデートだ。買い物に行ったり映画に行ったりするデートはもちろん楽しいけれど、私はこの公園でのひと時がもっと好きだった。

「なんで?」

「だってなんかすごい真面目やし。勉強だってできるし、それに俺のことめちゃ好きやし」

「最後の何なん」

「いやーだって、好きなのめっちゃ伝わってくるもん」

「そりゃそうでしょ。だって好きだもん」

真面目な雰囲気で始まるただの浮ついた会話も、お互いの悩みを打ち明けるような真剣な会話も、彼が紡ぐのは全部大切な言葉たちだ。彼は同い年の男の子に比べるといくらか精神年齢が高いように感じたし、自分でもそれを弁えているらしい。「俺は女の子と会話する方が気が合うんよね」と得意げに言うのだ。

「女子の方が男子より3歳ぐらい精神年齢が高いっていうもんね」

「そうっちゃん。やけん、こうして萌生とも仲良くなれたとって」

いたずらっ子のように笑う彼。私は彼が「女の子の方が気が合う」という理由がなんとなく分かっていた。とにかく口が達者だし、話し好きで二人でいる時は永遠と他愛もない話をすることができたから。

「でもほんと、ありがとう。いや面と向かっていうのは照れくさいけど、いっつも思ってる」

今の気持ちは今言葉にしなければ伝わらない。彼はそう心得ているようで、自分の気持ちを伝えることに出し惜しみをしない。だから私は彼の言葉は誰の言葉よりも信用していた。

「いつか結婚しような」

「うん」

高校生同士の「結婚しよう」なんて、どれだけ本気で実現するか分からない。たぶんほとんどの場合は単なる口約束で終わってしまうんだろう。

でも、この時の私は彼の言葉を絶対的に信じていた。この先何年経っても二人並んで歩いていくものだと思っていたし、たとえ別々の進路に進んでも、その先で道は必ず一つになるものだと確信していた。

私は本気で、桐生陸と結婚するつもりだった。

たいていの高校生カップルが短期間で破局してしまうものだというデータが出ていたとしても、自分は、自分たちは例外だと信じていた。


高校一年生の夏、私は彼と一緒に地元の花火大会を観に行った。待ち合わせ場所のバス停までやってきた彼は浴衣姿の私を見て、照れながら「可愛いね」と言ってくれる。バスに揺られている間、下駄でうまく歩けるかずっと不安だった。でも、花火大会の会場に着くとお祭りの華やいだ空気に呑まれて、下駄のことなんか気にならないくらい楽しかった。

花火は私たちの目の前でバババンと咲き乱れる。人混みをかき分けて、人の少ないエリアで三角座りをして空を仰いだ。時折飛んでくる火の粉を、きゃあきゃあ言いながら避ける。二人で見る花火は特別で大切な思い出になった。


高校二年生の冬、別のクラスだった私たちは修学旅行の夜に部屋を抜け出して二人で会った。一年生の頃に比べるとクラスが離れたことで校内で二人きりになるのにかなり苦労した。もちろん、学年中のみんなも先生たちも私たちカップルのことを知っていたので、誰かに見られたところで今更恥ずかしいということはない。

「来年は同じクラスになりたい」

「でも、先生たちが俺らのこと知ってるから無理だよ」

「どうして?」

「だって、カップルは離れさせるのが普通でしょ」

「それって勉強に支障が出るから?」

「そうじゃね?」

私も彼も共に文系であり、同じクラスになる可能性が0ではないことは承知の上だ。しかし彼の言う通り、先生たちは私たちカップルのことを知っているからあえてクラスを別々にしたに違いない。なんてったって、私たちの学校は進学校でほとんどの人が大学へと進学するべく勉強に励んでいる。しかも来年は受験生。どう考えたってクラスは別になるだろう。

「そっか。まあでも離れても変わんないもんね」

「そうだな」

変わらない。私の彼への気持ちは変わらない。それどころか、月日を重ねるにつれ日に日に大きくなっている。彼も同じだろうか。

どうか同じでいてくれますように。


しかし、運命という言葉が数々の漫画やアニメでその後の展開を予想だにしないものにするように、私たちの関係も例外ではなかった。

高校三年生になると、今までよりもいっそう勉強やテストへの意識が膨らんでいった。私は、一回のテストでうまくいかないと常にストレスが溜まり、ダメとは分かっているのに彼に八つ当たりするようになってしまった。しかもそういう時に限って彼はテストでいい点数をとっている。どう考えても自分の方が頑張っているのに——という独りよがりの嫉妬が、私の精神を蝕んでいく。

「今回も最悪だった。いいよね、陸くんは頭がよくて」

「……そんなことねーって」

私は京都の国立大学を狙っていて、彼は東京の国立大学を目指していた。

そうだ、頑張って第一志望の大学に合格したところで私たちは離れ離れじゃないか。

かつてはそんなことすらも障害にならないと思えるくらい、ただ彼のことが好きな気持ちでいっぱいだったのに、成績が振るわなくなるとつい悪い方向へと思考が持っていかれる。

「ごめん、今日は先に帰るね」

いつもこうだ。

彼が何か気に障る発言をしたわけでもないのに、私の方が勝手に機嫌が悪くなって口を利くのが辛くなる。頭の回転が速く要領がいい彼に、私は深く嫉妬していた。私は、思考が遅いので人の三倍くらい勉強してようやく人並みになれると思っていたから。いろんなものを我慢して時間ばかり勉強に費やして、それで納得のいく結果が得られないことに終始落ち込んでいたのだ。


今考えると、どうして彼に八つ当たりしてしまったんだろうって思う。それも一度ではなく何度もやってしまった。受験生という状況でストレスが溜まっていたのは仕方ないにしろ、もう少し言い方があったんじゃないか。たとえ翌日になって彼に一生懸命謝ったところで、一度吐き出してしまった言葉はもう飲み込むことなんてできないのに。

後悔したって遅い。

だって、彼は高校三年生の夏に、私に別れを告げてきたのだから。


三年生は予想に反して同じクラスになった。先生たちが私たちの願いを知って同じにしてくれたらしい。クラス発表の時、嬉しくて残り一年の高校生活がまた楽しいものになりそうだと期待した。テストの前後以外は、私の精神が落ち込むことはあまりなくて、いつも通り彼のことが好きな自分に戻っていた。

それがなぜ、あんなことになってしまったのか。


それは高校三年生の7月。いつものように彼に就寝前の連絡を取ろうとしていたところだった。受験生になってLINEをやめ、再びメールでやりとりをするようになり、私は彼からの新着メールに気がついた。

『もう終わりにしようって思って』

目に飛び込んできた言葉に、頭の中が一瞬にして真っ暗になった。

それが何を意味するのかはすぐに分かった。

途端、最近彼が「忙しいから」と一緒に帰るのを拒むようになったのを思い出す。私よりもクラスの他の女の子とよく話すようになったのを思い出す。

嘘だ、という言葉が頭の中を反芻する。

嘘だ。

だってあんなに好きだって言ったじゃないか。

結婚しようって言ったじゃないか。

誕生日にくれた手紙に、絶対に幸せにするって書いてくれたじゃないか。

彼が私にくれた言葉たちが、頭の中で弾けて泡となって消えていく。

あれは全部、嘘だったというの……?


震える指で「考え直して欲しい」というようなことを送った。実際になんと送ったか記憶がぼやけて覚えていない。とにかく別れたくないと彼を引き止めるのに必死で、見苦しい気持ちを言葉にしてぶつけて、余計彼を困らせた。

その後実際に会って話をしたけれど、結局彼の意思は変えられなかった。別れの理由も言わず、頑なに私を拒む彼を見て、ただただ悲しくてひたすら泣いて、気がつけば一週間で2kgも体重は減り、夜眠れなくなった。

友達や仲良しの先生の前でみっともなく泣き、励ましてもらってなんとか立ち直れたと思っていたのだが。彼がその後教室で別の女の子と楽しそうに話しているのを見せつけられる度に、別れの際の傷はどんどん深くなっていく。彼のことを考えまいと勉強に集中するフリをして、耳はしっかりと彼と彼女の会話を拾ってしまう。会話の内容自体はしょうもないことだったけれど、そのしょうもない話を、私は彼と長いことできていなかったんだと気づいた。

せっかく同じクラスになれたのに。先生たちが取り計らってくれて私たちの最後の一年を楽しませようとしてくれたのに。今はそれが逆に仇となり、受験生の私を鞭で打つように痛めつけた。

何度も傷を抉られながら冬が来て本格的な受験シーズンがやってくると、彼は例の彼女と付き合いだした。その頃にはもう彼らのことを見ないフリをするのが上手くなっていた。けれど、意識はずっと二人の方へと向いていた。彼を見返すためだけに勉強に打ち込みもした。早朝から勉強を始め、不眠症を悪化させながら日々勉強のことだけを考えようと努める。そのおかげか、私は第一志望の京都の大学に合格した。


長い長い戦いが終わったようだった。彼は第一志望の東京の大学に落ちてしまったらしい。難しい大学だから仕方のないことではあるが、少しだけ胸がすく想いだった。

合格発表の前日、私は万が一前期入試が落ちていたときに備えて後期入試の対策をしに学校に来ていた。卒業式も終わり、登校してくるのはまだ合格発表が行われておらず、かつ後期入試を受ける予定の者だけだ。

「もう自由に羽ばたいて」

国語科の担任の先生が、職員室で私の小論文の添削を終えると一言そう添えた。「あなたは十分頑張ったんだから、大丈夫よ」という意味なのだと悟り、「はい」と短く返事をして私は教室へと戻ることにした。荷物を置きっぱなしにしているので、片付けてから帰ろうと思っていた。

「よう」

教室に戻ると、そこに桐生陸がいて私は一歩後ずさる。来た時はいなかったから、私が職員室に行っている間に登校したのだろう。彼もまだその時には前期入試の合格発表が終わっておらず、後期入試の勉強をしに来たのだと分かる。しかし彼はスマホをいじっているだけで、勉強をしている様子には見えない。教室には他に誰もいなくて、正真正銘二人きりだった。そう思うと途端に心臓がバクバクと音を立て始める。

「スマホ、変えたの?」

「そうそう。受験も終わったし」

彼と話すのは久しぶりだった。年が明けてからほとんど口を効いていない。一年間同じクラスにいたけれど、ずっと遠い場所に行ってしまった。そういう人として認識してきた。

「もう帰るの?」

「うん」

それだけだった。もっと気の利いたことが言えれば良かったのだけれど、いきなり二人きりになって言いたいことは何もまとまっていない。そもそも、彼に何を言えばいい? もう散々、二人の関係については考え尽くしてケリをつけたし、彼は今別の子と付き合っている。

「それじゃあね」

「おう」

リュックを背負い、私は彼に背を向けた。後ろ髪を引かれる思いで教室を出る。別れた直後よりもずっと彼への気持ちは凪いでいた。けれど、まる二年間の高校生活を共にし、思い出を共有する彼と本当に別れることになる、と思うとなんだか感傷的な気分だった。


それが、私が彼と会った最後の瞬間だった。


その年の4月、私は京都の大学へと進学し晴れて第一志望の大学で勉強を始めることになった。彼はもう一年浪人をして来年再び東京の大学を受験するらしい。

すべての戦いが終わったと思った。

私は生まれ育った九州を飛び出し、きらめく未来に向かって一歩踏み出すのだ。


実際、大学生活は新しい友達、新しい勉強、新しい環境と刺激に満ちていた。最初は新しいことだらけで、しかも一人暮らしを始めたため不安でいっぱいだった。けれどそんな不安も、数ヶ月もすれば目の前の楽しいことで吹き飛ばされていった。

勉強の要領も掴み、サークルにも入った。新しい友達もできて大学一回生の夏、九州に帰省する頃にはすっかり大学生活を謳歌していた。

「真斗君と付き合うことになったの」

「そうなん? おめでとう!」

周りの友達にも恋人ができ始める時期。サークル内でカップルができることが多く、同じクラスの友達は誰々先輩と付き合っているらしい、という噂も回り始める。そんな話を聞いていると、純粋にいいなと思ってしまう。

私も新しい恋人が欲しい。

しかし、高校とは違い毎日強制的に特定の人物と顔を合わせられることのない大学生活において、恋人はおろか好きな人さえなかなかできることはなかった。

ちょっと気になるという人がいても、自分からデートや遊びに誘わない限り、先には進めない。迷っているうちに「こんな曖昧な気持ちでお誘いしてもいいのか」と葛藤し、結局は友達止まり、ということが多くなった。

高校とは違い、大学での恋愛の難しさに辟易していた。

上手くいかない、と分かるとどうしても高校時代を思い出してしまう。桐生陸と別れるとき、散々傷ついて泣いたはずなのに、二人で過ごした幸せな日々がフラッシュバックする。思い出は美化されるというけれど、正確には違う。傷つけられた思い出が美化されたのではなく、楽しかった思い出だけを思い出すように脳が命令しているようだった。


チャンスがまったくなかったと言えば嘘になる。

ありがたいことに自分にアプローチをしてくれる男性も何人かいた。彼らは皆親切で、絶対に私を傷つけるようなことはしないだろう、と思えるような良い人たちばかりだった。

でも、いざ告白をされると直感で「違うな」と感じてしまう。

人によっては、「付き合ってから好きになる」「告白してくれた人を好きになる」「好きじゃなくても付き合っちゃう」という女の子がいるが、私には当てはまらない。

私は、完全に自分が相手のことを好きな状態ではなければお付き合いすることができないタイプだった。

「ごめんなさい」

こんなにも良い人が私なんかを好きになってくれた。それなのに断らなければならない状況に、「ごめんなさい」の一言では済まされないとは思う。けれど大抵の人は「そっか」と私の意思を尊重してくれた。

一度、告白はされるのにあまりにも恋人ができない私に、友達がアドバイスしてくれたことがあった。「いっぺん付き合ってみれば?」と。

人間関係や将来のこと、いろいろなことに迷っている時期だった。周りの友達は付き合って○年という恋人がいて、なんだか自分が世界から置いてきぼりをくらっているような感覚に陥っている。

「そうだね。それもありかも」

好きじゃないのと付き合えない体質の私が、友達からのアドバイスを甘んじて受け入れていた。

そして、彼女の言う通り告白をしてくれた男の子と付き合ってみることに。

同じアルバイト先の同級生の男の子だった。とても誠実で頭も良く、寡黙だけれどモテそうだなと思わせるクールな雰囲気を持ち合わせている。同じ大学で気が合うし、いいなと思ったのは事実だ。

デートだって人並みに行った。ご飯を食べたり一日神戸で遊んだり、お家でまったりしたり。どの瞬間も優しくて、たぶん私にはもったいない人だった。

でもやっぱり、付き合っていくにつれ、「私はこの人のこと、本当に好きなんだろうか」という気持ちが付き纏った。

あまりにも気持ちが凪いでいて、あの燃えるような高校時代の恋とはまったく違っていた。それでも「異性として好き」という感情があれば良かったのだが、彼に対する気持ちは「友達として好き」に他ならなかった。

自分が最低すぎて、バカだと思い悩む日々。思い出すのはやっぱり桐生陸との甘ずっぱい思い出。

あの頃の気持ちに、今の私はなれていない。

そう分かった途端、もうこれ以上は私のわがままに付き合ってもらってはダメだと痛感する。私は彼に、何の落ち度もない彼に、サヨナラを告げる。ほんの数ヶ月間の付き合いだった。


どうして別れてからも、私を苦しめるの?

どうして前に進ませてくれないの?


一つの恋が終わると、必ずあの人のことが頭に浮かんで。本当の戦いはまだ終わっていなかったのだ。一人暮らしの部屋の中で、布団にくるまってひたすら夜が明けるのを待った。

たまに自分から好きになれる人も現れたけれど、その人は逆に私のことを好きにならない。仕方ない。そう簡単に両思いになんかなれるわけがないのだ。分かっている。だからこそ、思い出してしまう。もう一度あの人に会いたい。でもきっとあの人は私になんか絶対に会いたくない。そもそも、私のことなんか忘れてしまっただろう。連絡先からも消されてしまっているのだから。

夢の中に、何度も桐生陸が現れた。夢の中の彼は大抵新しい彼女と幸せそうに笑っている。私は彼に謝りに行く。あの時は本当にごめんなさい。苦しめてごめんなさい。別れた直後、私は自分が悲劇のヒロインだった。でも、彼が私に別れを告げるのに十分なほどに、私は知らないうちに彼のことを困らせてしまっていたのだ。だから夢の中で会えた彼に、ひたすらごめんねを繰り返す。

彼は別れる時に理由を言わなかったけれど、元来マイナス思考な私に嫌気がさしたのだと分かっていた。だから大学生になってからというもの、明るく振舞うように努めていたのだけれど、心が弱っている時はどうしてもダメだった。また元の弱虫な自分に戻ってしまう。あなたを思い出してめそめそ泣いてしまう。

あんなに傷ついた恋だったのに、私は彼のことがこんなに好きだったんだ。

私と彼はもう、どうしたって交わらない。同じ空の下で息をしているはずなのに、ねじれの位置で生きている。もう会えないということは、死んでしまったのと同じようなものだ。

会いたい、でも会ったところで突き放されるのは見えている。

だから会わない方がいいのだ。

一生、会わない方がいい。

帰省すると、どこかに彼がいないかと探してしまう自分がいる。

東京に遊びに行くたびに、彼とすれ違っていないかと確認する自分がいる。

そんな自分と、早く決別したかった。


こうして彼との恋の思い出に焦がれるまま、大学四回生になる前に、私は最後の恋に出会った。

「葉方さん俺といつ付き合ってくれるん?」

飲んだくれの酔っ払い状態で私に告白をしてきた男は、同じインターン先の会社で出会い仕事をしていた先輩だった。

少し前から一緒に遊んだりご飯を食べたりしていて、久しぶりに心から「この人いいな」と思えた人だ。

桐生陸との恋の思い出に散々振り回されていたと思っていたけれど、いつしか心の整理がついていたのだ。止まったままだと思っていた時間は、少しずつだけど確実に私を過去から遠ざけていた。

「いつでも、いいです」

素面の私が冷静に答えると、酔っ払いの彼は嬉しそうに目を細めた。普段は仕事ができて格好良い人なのに、酔っぱらうと無防備な姿に、年下ながら「かわいい」と感じる。

「じゃあよろしく」

「はい」

なんてあっさりとしたやりとりなんだろう。ロマンのかけらもないシチュエーションなのに、心は満たされている。ドキドキしながらメールを送ってもいなし、一度断ってやっぱり付き合おう、なんて展開でもない。だけど、ちゃんと彼を好きだと思う自分がいた。ずっと過去の恋に引きずられ囚われたままだと思っていたけれど、そうではなかった。私は前に進んでいた。

そんな彼と一年半後に籍を入れ、今年の秋に娘が生まれた。私は今年26になる。いつの間にか、桐生陸と過ごした二年間より、夫と過ごした時間の方が長くなっていた。夫は桐生陸みたいに「好き」や「愛してる」を逐一言葉にはしないタイプだった。それでも、言葉や態度の端々から私を大切にしてくれているのが伝わって嬉しくなる。

夫への気持ちは、恋から愛に変わったと思う。一緒にいるのが当たり前すぎて好きだという気持ちを忘れそうになることもある。でも、いざ目の前からいなくなられるととても辛い。私はとっくに愛に囚われていたのだ。愛は恋よりも穏やかで、刺激はほぼ皆無に等しい。あれだけ刺激的な大恋愛をした自分にとっては、新しい世界が開けた感覚だった。人はそれを時につまらないというけれど、つまらない日々がこんなにも特別で愛しく思えるなんて、高校生の自分には予想もしていなかった。


桐生陸との恋は、寂しさだけを残したわけではなかった。彼は私に愛される喜びを教えてくれた。だからこそ、もう一度別の誰かを好きになれたのだと気づく。彼はこの先一生私とはねじれの位置にいるのだろう。私はまた時々思い出して懐かしいと感じるのだろう。死ぬ前にまた振り返るかもしれない。未熟だったあの恋は、未熟ゆえに完璧だった。


また夢を見た。娘がお腹にいた時だ。約半年から一年ぶりに、夢の中に桐生陸が現れた。別れてからもう8年が経って、私も彼も大人になった。

桜並木の坂道を、私は夫と歩いている。夫がまだ現実では生まれていない娘を抱っこし、光ふる道を穏やかな気持ちで進んでいく。

すると、目の前から桐生陸が坂を降ってきたのだ。彼は私を私だと気がつかない様子でこう尋ねてきた。

「あの、この辺で桜が綺麗に見えるところってどこか知ってますか?」

桜なら、この道自体が桜並木じゃないかと言いたいところだったがそうではないらしい。もっと桜の名所的な場所のことを聞いているらしかった。

「それならあっちの方です」

夢の中の私はなぜかその桜の名所を知っていて、振り返って川のある方を指差す。川の方からは、桜を見にきた観客たちの華やぐ声が聞こえてくる。

「分かりました。ありがとうございます」

笑顔でお礼を言って、桐生陸は川の方へと歩いていった。

ついに私に気づかなかったようだ。

ふふ、と口元に笑みがこぼれる。久しぶりに彼に会ったのに、ちっとも動じない自分の心が嬉しかった。

「どうかした?」

夫が私の顔を覗き込む。

「べつに! 行こう」

夫と娘とまた、桜吹雪の舞う坂道を歩き出す。春のうららかな陽気が美しい一日の夢だった。

目が覚めてから、いつもみたいに桐生陸の夢を見たあとの寂しさが募っていないことに気づく。それどころか、心がすっきりとして心地良い。

たぶん彼は私に本当に本当の最後のお別れをしてくれたのだ。

これから娘を育て新しい家族と一緒に歩き出した私に。

あのねじれの恋は決して無駄なんかじゃなかった。

今の自分が幸せなのは、あの時彼が本気で私を好きになってくれたからだ。

「ありがとう」

あれから彼は、一度も夢に出てきていない。

共感していただいた方、「面白い」と思ってくれる方のサポートは何よりの励みです。よろしくお願いいたします!