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AIに絵を描いてもらうこと

AIが描いた絵が、わたしはちょっと苦手です。
うまく言えませんが、どこか無機質な感じがして、じーっとみていると底のない空洞のなかを覗きこんでいるような心地になり、すこしこわくなるのです。

だからわたしは、AIが描いた絵をあまり見ないようにしていました。しかしそういった絵を見かけては避けるたびに、わたしはどうしてこんなに苦手なのかとすこしモヤモヤとするのでした。わたしが絵を描く人間だからというのも、多少関係あるのかもしれません。ですがよくよく自分の感情を感じてみると、単に苦手なだけではなく、わたしの何かが脅かされるような、なんとも言えない心地がするのです。その心地を言語化していくと、「どうして絵を描くことをそこまで簡素化するのだろう」という、多少の苛立ちを含んだ、ひとつの疑問へとつながるように思われました。

絵を描くことは、しぜん手間がかかります。画材を準備して、時間をかけて制作をする。それはごく当たり前のことだと思っていましたし、その部分を省くという考えはわたしの頭にはありませんでした。そこへそれをやってのけるモノがあらわれたことで、わたしは戸惑ったのだと思います。加えて、「省く」ということはつまり「その時間はムダ」だということとイコールのように感じられて、途端に落ち着かなくなるのです。わたしにとっては意義のある時間を、世間はムダだと思っているのかもしれない。その考えがおそろしく感じられて、つい抵抗したくなります。この時間をムダだなんて言わないでほしい、と駄々をこねたくなるのです。

しかし駄々をこねる相手は目の前に存在しないので、悶々とした気持ちを抱えたまま時間だけが過ぎていきます。そうこうしているうちにお腹が空きました。こんな時でも変わらずお腹が空くことに、ありがたい反面めんどくささを感じます。こうも悶々としていると一からつくる気力など起きないので、今夜は適当に冷凍食品でも食べようか…と冷凍庫を物色しているうちにふと、これも同じことかもしれない、と思いました。

料理は本来、食材を準備して、時間をかけてつくるものです。その手間を省いたもののひとつが冷凍食品であり、その恩恵を受けているのが今のわたしです。その浮いた時間でわたしは、引き続き悶々としたり、絵を描いたりするのでしょう。それと同じように、AIの絵によって誰かが恩恵を受けるだけの話であり、その誰かはもしかしたら、その浮いた時間で手間をかけておいしい料理をつくるのかもしれません。

自分の「大事」にばかり目が眩み、誰かの「大事」をないがしろにしていたのか、と顔が熱くなりました。なにを大事に思うかというのは本当に人それぞれで、そのどれもがひとしくその人にとっての「大事」であるはずなのに。冷凍庫の冷気がやさしく頬を撫ぜていきます。
「大事」というのはある意味「それに関する多少のめんどうは厭わない」ということとイコールなのかもしれません。硬い殻をひとつひとつ剥いたり、コトコト何かを煮込んだりする姿に「そんなめんどうな事が出来るなんて」と感心こそすれ、「そんなめんどうな事をするなんてムダだよ」などと貶す権利など、わたしにはきっとないのです。それに、たとえもし貶されたとしても、その人の「大事」は損なわれることなく変わらずその人にとって大事なものなのですから、駄々をこねるのはやめにして、しかしめんどうな料理は今夜は省いて、わたしはきっと、これからも絵を描こう、と思うのでした。


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