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味噌汁のなかから転がり出たもの

味噌汁がすきです。
とりわけ具沢山なもの、これは汁より具を食べるためのものですね、といった感じの味噌汁がすきです。

なのでわたしは味噌汁をつくるとき、いつもこれでもかというほど具材をたくさん入れます。今朝食べた味噌汁を例にあげると、じゃがいも、にんじん、えのき、大根、さつまいも、木綿豆腐を、それぞれ鍋の中に溢れんばかりにぎゅうぎゅうと詰め込みました。くたくたに煮込んでやわらかくなったそれらが器のなかでひしめき合っているさまにほくそ笑み、ひとつひとつを味わうように噛みしめるとき、わたしは本当にしあわせな気持ちになります。

例に違わず今朝もひとつひとつ食材を口に運び、ああ美味しいなぁとひとり喜んでいました。最近はとくに大根がお気に入りです。寒くなったからか水分を多く含んでいて柔らかく、大根特有の滋味のようなものもより一層増しているように感じられます。そんな大根のほろほろ具合を楽しみつつ舌鼓をうっていたのですが、ふと「この味、なんだか懐かしいな」という気持ちになったのです。
なんだろう、と咀嚼を続けながら記憶をしずかに引っ張りだしてみます。いつだろう。どこだろう。そうして辿っていくうちにコロンと、あ、お雑煮だ、と気がつきました。そうだ、お正月に家族で食べていたあのお雑煮だ。白味噌のなかに二切れ三切れ、しんと沈んでいた、あの少し分厚めの大根だ。
思い出しながら、大根の厚みまで覚えている自分にかるく驚きました。よく煮込まれてはいるけれど、噛んだときに厚めに切った大根特有のソク、という食感が感じられたことだとか、上品な白味噌の味付けゆえに大根本来の味が強く感じられたことだとかを、なぜだか本当によく覚えています。と同時に、幼いころのわたしにはその野菜らしい味がいやに強く感じられたため、なんでこんな野菜なんか食べなきゃならないんだ、と辟易としていたことも思い出されます。

わたしは正直に言って、家族のことがだいすきですと、屈託なく言えるような人間ではありません。そしておそらく大概の家族がそうなんじゃなかろうか、とも思っています。みんな大なり小なり家族ってものに不満やら怒りやら憤りやらを感じていて、それでもまあ家族ってそういうものだろうと受け止めていきておられるのだろうな、なんて勝手に思っております。
だから別にそのお雑煮の思い出はわたしにとって、仲睦まじい家族の一場面でもなければ、美味しくて仕方がない料理の記憶というわけでもありません。むしろ、子どもごころに正月特有の空気に気を遣ったり、苦手な野菜を我慢して食べたりした、いうなればあまりうれしくない部類の記憶です。しかしそのことがこんなにも時間を経て、しかも己の作った味噌汁によって思い出されるということが、家族というものの妙な縁をとてもありありと現しているようで、どきりとしました。
この世にうまれたばかりのわたしをいちばん近くで迎え入れてくれ、ながいながい時間を共にし、日常を分け合っていきてきた。その途方もない時間の積み重ねが、こうしてある日、味噌汁の大根から出てくることがある。親がわたしのためにつかった親の人生の時間のいちぶが、こうして姿をかえてわたしのなかに息づいている。そのたしかな息吹きが今朝わたしのなかをスン、と吹き抜け、ぶわっと胸にひろがった。そんな心地が、したのです。

そうこうしているうちに味噌汁はすっかり冷めてしまいました。少し温めなおすとして、そのあいだにあれでも作ろうか、なんて思い立ちます。毎朝行きたくもない学校に行く前に、母が作ってくれたあの目玉焼き。蓋をして蒸してあるから黄身の上がすこし白んでいて、わたしが好きだからといつも半熟にしてくれていたあの目玉焼きを、今朝はわたしがわたしのために作ってやろうか。そう思いながらわたしは、かつての母に似た顔で微笑むのでした。

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