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人生は、「素直な自分になる」ための旅

口癖は「どうしよう・・・」

身長が高くて、見かけは堂々としている印象だったのは若い頃からで、そのせいか、中学や高校の部活(バスケ)では、先輩から生意気と思われたりするタイプ。

おまけに勉強の成績もまぁまぁだったこともあり、中途半端な自尊心がすでにあったからカッコつけてはいたけれど、心の中はいつも不安でびくびくしていたのが、10代の私。

両親が離婚して、母と弟&妹、祖父母や叔父に囲まれて育ちながら、「さみしい」と思うことはそんなになかった記憶です。

でも、今思うと、いつも心の内側はどこからかすきま風が吹いているような、「心から楽しい!」とか、「すごく幸せ」とかの感情は感じることはなくて・・・。

強いて幸せ!をハッキリ感じた時と言えば、テレビの世界でした。80年代の当時、歌番組全盛期だったし、聖子ちゃんやマッチを見て、キラキラした彼らの歌の世界に浸ったり、自分の現実とその世界を結びつけたりするのが唯一の楽しみだったな〜、と思います。

あとは、ドラマも。今は全く見ないのですが、当時は日本中が同じ番組を見て、同じ思いを共有していた。そんな時代でした。

父がいなくなって、『強くて頑張り屋だけれど不安で自信がない母』と弟と妹と。これから3人で生きることを理解した時、布団の中で天井を見上げながら、いいようのない『恐怖』を感じたこと、今でもハッキリ覚えています。

私たちはこれからどうなっていくのだろう。

生きるのが怖い。そんなふうに感じたあの感覚が、私の中にその後もずっと静かに根を張ってしまった「不安」の根源でした。

その後大人になってからも、何かを決めるときもなかなか決断できず、少しでも想定外のことが起こるといてもたってもいられなくなる。そんな感じでした。

だから、当時の私の口癖はいつも、「どうしよう〜!」だったのです。

海の向こうに通じる扉

不安な中、当時の私にとって少しの安心材料となったのが、学校の成績がまぁまぁ良かったことでした。

居場所であるはずの『家庭』というものはぐらついていて、いつも心につきまとうのは、得体の知れない不安感。そんな状態だったからこそ、『まともな人生を生きる』ために、学歴が必要だと思い込んでいました。

通った高校は生徒の90%以上が大学受験をして、また学校としても偏差値を必死に上げようとしていた私立の女子校。

この頃から、自分の好きなことが何で、どんなことに心がワクワクするのか、がわからなくなり始めていた・・・、と思います(笑)。

とにかく受験して、いい大学にいくことが自分にとっても安全で、漠然とですが母と親戚を喜ばせること、という方程式が自分の中にできてしまっていました。

予備校行かず、なんとか一発で大学は合格したものの、ここでの4年間はふぬけのような時間になってしまいます。

何のために大学に行っているのか、奨学金という借金をしながら、バイトも学費に当てながら通っていていても、その答えは出ませんでした。だからといって退学するような勇気ももてなかった。

今思うと、とても恵まれた環境で、素晴らしい仲間になりうる人たちが集まっていたのに、です。

私の魂が眠ってしまっていたので、その環境と時間を生かしきれずに4年という時間はあっという間に流れてしまっていました。

人間科学部という新しい学部で、『人間』というものをいろいろな角度から学ぶ、当時としてはちょっとした時代の先端を行く学部で、専攻は心理学。

今思うと、ここで学んだことも、結局は今の自分にすべて繋がっています。まさに、後から気づく、点と点が繋がるとはこのこと。

ですが当時の私はそんなこと思いもせず、就職にも繋がるわけではない大学の専攻についても、『大学名という箔が欲しくて4年間を過ごした』ような、そんなかすかな敗北感にも繋がっていたと思います。

その大学生活の締めくくりである卒業旅行で、はじめて、アメリカの地を踏みました。

友人と参加した、卒業生向けのホームステイプログラム。

カリフォルニアの小さな町で、お医者様のパパと、元看護師のママ、そして5歳〜10歳のかわいい3人の子供たち。絵に描いたような素敵なお宅で、初めての英語圏での滞在を1ヶ月経験しました。

家族のように接してもらいながら、見るものも、触れるものも、すべてが刺激的で、まるで『映画の世界』そのものだった!

そう、当時のアメリカは、多くの日本人にとって憧れの場所でした。

それは、小さな片田舎のなんでもない日常の風景だったのだけれど、プール付きのお家、大きな冷蔵庫と食洗機、大きなスクープのアイスクリームに、ハンバーガー。

そして、赤の他人である私に毎日言ってくれるパパとママからの「Love you, Rie!」という言葉。

1ヶ月程度でしたが、このホームステイでの体験が、私の内側の何かを目覚めさせたのは事実だと思います。

こんな世界があるんだ、ということに。

国が違うのだから、ましてや地球の反対側くらいの距離があって、歴史も文化も違うのだから、何もかもがそもそも違うのは当たり前なのです。

それでも、何か救われたような、希望を見出したような、そんな感覚だったのを今でも覚えています。

「海の向こうで生きてみたい」そう強く望むようになった私は、そこから英語を独学で学び直すことをはじめると同時に、つねに海外に通じる扉を探して、見つけたら片っ端から開けていく、というようなことをしていました。

就職して3年後には会社を辞めてオーストラリアに1年ワーホリビザで滞在したり、帰国後は外資系の企業に就職して出張でアメリカのいろいろな都市を訪れたり、旅行でも、カナダやヨーロッパ、アジアなど、いろいろな国を訪れては様々な人と交流することを楽しみました。

振り返るとそれらの時間はすべて、まるで自分にとってぴったりの場所をつねに探しているかのような、常に旅をしているかのようでした。

アウトローでいいじゃない

オーストラリアのワーホリから帰国後は、職場はつねに外資系の企業ばかりを選んでいましたし、毎日英語を使って仕事をすることで、英語力は少しずつ伸びていきました。

いっぽうで当時は、どんなに自力で英語を頑張ったとしても、それは幼少期を海外で過ごしたような帰国子女や、高等教育をアメリカやイギリスで受けた留学経験者とは、受けた教育も、使える英語力にも雲泥の差がある。世の中も、私自身もそう信じ込んでいた時代です。

インターネットが普及する以前は、英語を話せるということは、ステータスであり、特別な人の特権でもありました。

だから私はよく、母親からも、「そんなに英語を勉強して何なるの?通訳にでもなれるの?」などと嫌味を言われまくっていた。

今なら、

「なろうと思えばなれるよ。でも、別になりたいわけじゃないからならない。」

そう答えられるのだけれど、当時の自分は何も言えず、でも英語と触れていることが自分にとっての救いだったのです。

海の向こうの違う世界に通じるためのツール。それが、私にとっての英語であり、なんとしてでも使えるレベルにしたかったもの。

でもそこには、明確な目的があったわけではなく。ただ、私の中でつねにリフレインのように響き渡る言葉がありました。

アウトローで生きたっていいじゃない
みんなと違ってたっていいじゃない。
ここ(日本)で受け入れられなくたっていいじゃない。

Outlaw(アウトロー)とは、英語で無法者、はみ出しものという意味の言葉。転じて日本語の意味としては、社会秩序を無視する人とか、普通とは違う道を行く人、という意味でも使われています。

そう、私は人と違うことを肯定しながらも、そこにはまだどこか、得体の知れない不安と諦め、そして何か形の見えないものに対する怒りのようなものを抱えていました。

もしかしたらそれは、若さ特有の社会とか既成概念への反抗心とも言えるのかも知れない。

ですが、この時が過去の子供時代の自分と大きく変わり始めていたのは、ただ「どうしよう」と途方にくれるのではなく、みずから別の道を選び取る。そんな選択をすることが少しずつ増えていき、またそういう生き方をしている人たちに憧れていたように思います。

そんな私にとっての強力な武器であり、強い自分を作る大事な要素であったのが、英語でした。

つまり、英語という武器をもっている限りは、いつだって自分に別の選択肢を与えてあげられる。そんな感覚がありました

それは、今の私が英語に対して抱く思いとは、少しずれがあります。

まだまだ、ツッパっている自分がいたんです。
カッコつけたい自分、とも言えるでしょうか。。。

今なら、英語を使って得たいのは『つながり』です。そう、英語は私たちを繋げてくれるツールだからです!

しかし、当時のわたしにとっての英語は、目の前の現実と自分を切り離してくれる、そんな不思議なパワーがあると信じていたものかもしれません。

自分を活かすという生き方に目覚めて

アウトローを地で行きながらも、つねに自分の居場所を探していた時間はしばらく続きました。それは、今思うとありがちなのですが、やっぱり根無草(ねなしぐさ)のような状態だったとも言えます。

日本以外の国がいいと言いながら、結局どこにも安住の場所を見出せなかったのは、まさしく私自身の内側の問題でした。

私の中には、いろいろなものに対する否定や、そんな価値観の根っこにある『受け入れたくない自分』というのがあり、だんだんと存在感を増して限界に達しようとしていました。

2014年の秋、私は人生をリセットするつもりで、イタリアに出発します。1年の予定での、遊学。特に何かをどうしてもイタリアで学びたいとか、その先を考えてのことではなく、理由は単純に『魂が反応したから』。

ワーキングホリデーでオーストラリア滞在中に出会ったイタリア系移民の人たちから聞いたことや、塩野七生さんの小説やエッセイが好きで、ローマとバチカンという、人類史上大きな意味を持つ場所があること、など。

私にとってイタリアは、「いつかは行ってみたい」、ずっとそう思ってきた国だったのは本当です。

加えて、それまでの人生がとたんに無意味に思えてしまうくらい、絶望感を味わったきっかけとなる失恋があり、そのさなかに訪れた国がイタリアだったこと。

様々なことが重なって、イタリア行きを決めました。

結果、数年分生きたくらいの充実した時間と、この人たちに出会うためにここに来たんだ、そう思えるくらい心通じ合える人たちとの出会いがありました。

でも、彼らはみな旅行者で、帰る場所と生活が自国にある人たちばかりでした。1年という短い時間では、結局そのほとんどの出会いは語学学校と、その後通ったジュエリー学校でのもので、親しくなった人たちも地元イタリア人ではなく、外国人たちばかりでした。

その国の本質と根幹に触れていくには、1年では足りない。それを今はとてもよく理解しています

旅行者という立場から、ローカルの立場に移行し、観光ではなく日常を生きるようになって初めて、その国のローカルの人たちと本物の関係を築けるようになります。

イタリアでは、イタリア語はもちろん上達しましたし、それまで学んでいたフランス語も同時によく使いました。また、様々な国から来た友人たちとは、つねに英語でたくさん交流しました。

つまり、学んできた3つの言葉、英語、フランス語、イタリア語が同時に使えて上達する時間でもあったので、自分がマルチリンガルであることを純粋に楽しんだ貴重な時間でもありました。

そんなイタリアでの時間を経て、私の中で決定的に変わったことがあります。

それは、『ただ、今を感じて楽しむ』というあり方・生き方に触れたことです。のちにそれは、私の中でマインドフルネスを理解することに通じていくのですが、当時はそんな意識はありませんでした。

おそらく、イタリアという国が持つ空気と、イタリア人たちのライフスタイルによるものなのかもしれません。

良くも悪くも、あるがままに。足元をしっかり感じて、何気ない日常の中に喜びを見出す。自分ではない何者かになろうとしたり、生まれ育った根っこがある魂の故郷から遠く離れて、違う世界を夢みたり、そのために必死に努力したり・・・・。そのようなイタリア人は少ないです。

人懐っこくて柔軟で、世界中どこででも生きていける彼らですが、心の居場所はいつも、どんなときも、イタリアのふるさと。イタリア人て、そんな人たちなんだなぁ、ということを理解した1年でした。

そんなイタリア的幸せ観に影響されたからか、自分にとっての『心のふるさと』はどこだろう?と考えるようになりました。また、『自分がもともと与えられてきたもの、今日まで生きてきたなかで経験したことを活かすとしたら、何ができるのだろう?』そんな考えをもつようにもなっていきました。

『自分の居場所はここではない』と、いつも窓の外を見て自分の居場所を探すのではなく。日本であろうが、イタリアであろうが、それ以外の場所であろうが、私の居場所は私の中にこそ、しっかり作る必要があったということ。そのことに気づいたタイミングでもありました。

すべては『今ここにいる』という内側の安定感と安心感、そして、すべてを受け入れたあとに感じる満足感から始まるし、その瞬間という存在自体はそこで終わるのだということ。

このなんとも言えないシンプルな感覚と、あるがままに今を受け止めることの潔さが心地よくて、同時に、「ここから私は変わっていくんだ」そう思えた気づきが内側に芽生え始めていました。

遅咲きの花

私は今、日本でマインドフルネスについての研修やコーチングを提供するのと同時に、英語学習についての情報発信とサポートもしています。

イタリアから帰国後、マインドフルネスについて学び、それまで学んできた心理学、ヨガ、語学などがすべて繋がったかたちで事業を運営しています。

まだまだいろいろなことが未完成で、不安定な中、私と出会い、信頼関係を築きながら目標に向かって共に進む決意をして下さったクライアント様の存在は、今の私にとってのいちばんの希望!であり、学びと喜びをもたらしてくれる存在でもあります。

いくつかサービスがある中、一貫してどんな時も私から皆さまに伝えたいこと。それは、

素直な自分で生きて、本物の望みを叶える

ことの大切さです。

私が長い間心の内側で抱えていた得体の知れない不安と、そこから気づかないうちに出来上がってしまった心の鎧は、その存在に気づくまでずっと、ありのままの自分で生きるということを止めてしまうものでした。

何が好きで、何がしたいのかがわからない。
どうすべきか?でなら決断して行動できるけれど、どうしたい?と聞かれたらとたんに不安になる。

そんな自分を長い時間生きてきた私にとり、今の自分は、『素直』そのものです!

もう、いろいろなことがわかっていて賢いフリをしたり、大丈夫ではないのに強くて大丈夫なフリをしたり、好きでも楽しくもないことにがむしゃらに頑張ったり、人と違うことが特別なことだと思い込んで自分ではない誰かになろうとしたり・・・というのはいっさいしなくなりました。

だから、自分の本当の望みがわかるし、不安になる時も怖い時も何が起きているのかがわかります。

自分の心の奥を見られるようになったからです。

そして今、私には、素直に望む夢があります。

それは、自分を生きること。それを諦めないこと。
やりたいことはぜんぶ、ぜんぶやり切る人生にすること。

まだまだ道の途中ですが、焦ってはいません。
だって、大切なことはどんな時も、『今ここにいる自分』をしっかりと受け止めて感じることだからです。

私の人生の花は遅咲き。
そう思って、どんな時も自分を大切にして水や栄養分をしっかりあげて、花を咲かせたいと思っています。

また、そのように咲かせた花は、周りの人に喜びをもたらす存在でありたいし、共に成長する人を勇気づけていきたいと考えています。

もちろん、ありのままの素直な私で。

このことと、ここにいたるまでの私の物語をお伝えしたくて、この記事を書きました。長文をここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます!

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そして、どこからでもいいので、いつでも必要な時はメッセージください。

最後に・・・今現在私が取り組んでいるマインドフルネス、ヨガ、心理学と脳科学、英語ですが・・・一見脈絡がないように見えてすべてつながっています。

私にとってこれらの学びが、自分を開き、余計な考えや思い込みをそぎ落として手放し、勇気をもってそこにある本当の自分を語る、ということを助けてくれています。

だから、皆さまにも、これらを通して語りかけていきます。どんなときも、本当に大切なことは皆さま自身が『素直な自分』に出会いたいと望むことです。

心からそう望んで生きると決める時、出会う人も、経験することも、そこからの学びも・・・すべてが素直な自分になって夢を叶えていくために必要なものであったことに、いつか気づくことでしょう🎉

今日まで出会ってきたすべての人たちと、まだお会いしていないけれどすでに繋がり始めている皆さまに、愛を込めて。


【高山理瑛(たかやまりえ)】

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