見出し画像

『MINAMATA』『コレクティブー国家の嘘』たまたま出会った二つの映画。強い者が弱い者をいじめて、奪い去る。この世界のー真実ーを描いて…。


ー史実に基づいた物語ーと映画の字幕にあったら。どう感じるだろうか? 

映画『MINAMATA』の冒頭、こういう表現は、誤解を招くんじゃないのかなと思ったのは、すでにわたしが、映画の中で描かれるユージンのエピソードの一つに「作り話」があるという批判を読んでいたからだった。

お金のかかる映画には、さまざまな制約があり、構成の都合で実際にあった事柄を別のエピソードに転嫁したり、複数の逸話を一つに変えたりするのは、よくあることだが、テロップには「これは史実に基づいて作られたフィクションです」とは打たれてなかった。(パンフレットに「史実に基づいた年表」が添付されている)

『MINAMATA』は、ノンフィクションあるいはドキュメンタリではない。アメリカの劇映画である。劇映画に「作り話」があるのは、当たり前、という以前に劇映画自体が「作り話」であるのだから、おかしな話だが。水俣病は、歴然とした日本の公害病で、未だに続く事実であり、写真家ユージン・スミスも実在の人物であり、映画の中に登場する水俣病患者もチッソの人々も実在するのだから、話は複雑だ。

「史実に基づいた物語」は、あくまでも「物語」であって史実ではない。しかし、純然たるフィクション、作り話でもない。『MINAMATA 』は、そのように「表現」が持たざる得ない、常に避けようとして避けがたい危うさの波間に漂う、映画だった。

映画の制作側は、当初は、熊本県水俣市での撮影を希望していたが、実現しなかった(その意味をどう捉えるかは、映画の中身と大きく関係がある。「水俣病」とは、未だに何であるのかを示していると想像できる)ロケの大半は、ヨーロッパのセルビア、モンテネグロで撮影されたという。何も知らずに見れば良かったと、わたしは、後悔した。

水俣病についても、ユージン・スミスについても、若い頃からそれなりの知識(もしくはイメージ)があるのも映画に出会うには、マイナスに傾いた。ユージンを演じたジョニー・デップも「LIFE」の編集長役のビル・ナイも大好きな俳優で、もちろん真田広之もとても良かったんだけど。ものすごくいい辛いが…「作り話」に見えてしまった。劇映画の「失敗」とは、それに尽きる。初めから作り話であるものを「真実」として見る側に受け取らせることが、つまりは「物語の勝利」なのだから。

エンタテインメント、劇映画、フィクションは、だから周到に手堅く、段階を踏んで作られる。「嘘」が嘘に見えないように。あるいは「虚構」が虚に見えないように。

だからと言って全てが、そう見えたのでもない。映画の中でユージンが出会う水俣病の少年がカメラを持つ指、加瀬亮が演じた被害者代表者の憤怒ー「怨」をチッソ社長に向けた、その刃で自らの手首を掻き切った…その姿も演技も「真実」として伝わってきた。それは、おそらくは、わたしに彼らについての認識が全くなかったせいだとしても。

そう考えれば、そもそも前提に既成のイメージも予備知識も何にもなく、この『MINAMATA』を見れば、逆説的に普通の劇映画、ハリウッド映画を見るように「感動」したのかもしれない。ジョニーの演ずるユージンに強く感情移入できたのかもしれない。

どうなんだろうか? きっと今の40代くらいからは、水俣病のことは知らないだろうし、どのように受け止めたのか。ただ、わたしは、この映画に意味がないとか駄作であるとか言いたいわけでもない。

「映画」としてどうなんか?と考えようとすることと、映画が制作されることの意味や「水俣」が世界に再発信されること、日本で改めて考えられることといった局面は、また別のことだからだ。無意味なはずはない。他国人が他国で撮った「日本」の映画だとしても。というより、その現実そのものに大きな意味があるはずだ。

ユージン・スミスが水俣を撮る前、日本へ写真展を開催するためにやってきた時、日本人は大いに歓迎し、写真展は大盛況だったそうだ。(『魂を撮ろう』石井妙子著より)アメリカではすでに過去の人になっていたが、日本では「世界的に有名なカメラマン」だった。

ジョニー・デップも盛りは過ぎたが日本では「世界的に有名な俳優」だ。そういう流れだけで見るのか、ユージンが命を賭けて写真に残したー真実ーを胸にしっかりと受け止めようとするのか。受け止めたらどう考えていくのか。全ては、わたしたちの側に委ねられている。

もう一つの映画がある。『コレクティブー国家の嘘』は、『MINAMATA』と真逆の映画だった。しかも、ほぼ無知の状態で見た。ルーマニアで起きたライブハウスの火事。大惨事となり27名の死者と180名の負傷者を出す。現実に起こった火事の映像が残っていて、映画の中に挟まれる。

しかし、映画の本題は、生き残って病院に搬送され入院しながら次々と亡くなっていった37名の被害者の家族から始まる。病院では、火傷ではなく、感染症で亡くなっていた。ルーマニア政府は、「ドイツと同じレベルの医療を施し」万全の体制で治療しており落ち度はないと繰り返していたが、一人のスポーツ新聞記者が、杜撰な医療現場のスクープを取り、国家的な犯罪、医療と政治の癒着、疑惑を暴いていくーのだったが。

こちらは、もう全くどうやって撮っているのかわからない…。本当にドキュメンタリなの?? カメラはスポーツ新聞の編集室に密着し、取材現場を直に取り、映し出される「犯人」の姿も映り込み方もまるで刑事ドラマの映像…。あげくには、当初「悪役」だった癒着の張本人、ルーマニア保健省の大臣が辞任、新に抜擢された民間からやってきた若者ーが大臣になるのだが、彼は、保健省でのやりとりや、会議の撮影を全面的に許すのである…!

前半は、スクープを追いかけ暴く記者たちのドキュメントで、後半からは、国の腐敗しきった仕組みを必死で変えようとする保健大臣の苦脳と奮闘努力。火災事故で大火傷を負った被害者が、自らモデルとなった写真展の様子、渦中の腐敗した病院からの内部告発者、何もかもが赤裸々に、そのまま写っている。

これは本当に「現実」なのか? まるで時代劇や「相棒」じゃないんだからってくらいステロタイプに見えてしまうのに、ドキュメンタリなのだ…。

「真実」ってのは、一体何なんだろうか…。

でも、それにしても。やっと二つの映画を結びつける。『MINAMATA』と『コレクティブー国家の嘘ー』どちらにも共通するのは、資本主義国家と社会主義国家の違いがあるにも関わらず、権力とお金を自分たちだけの所有のごとく、ぐるぐる回して、そのためなら「弱い者など知ったことではない」「無辜の人間の死などどうでもいい」とする「暴力」についてである。

強い者が、弱い者を虐げる。無法の世界について。

どれだけ悪事がスクープされても、国家の嘘が暴かれても、ルーマニアの選挙で圧勝したのは、与党だった。嘘じゃなくて現実だった。

わたしは、もちろん思い出していた。わたしの国のことを。森友問題、桜を見る会、オリンピックの賄賂問題、いくらでもスクープはあった。嘘は暴かれていた。多くの過程で少なくない人が社会的に抹消され、財務省の赤木さんは、自殺した。にも関わらず、やっぱり日本の政府与党も圧勝した。

この「仕組み」の現実に、打ちのめされる。

「暴力」から逃れ、何も知らないふりをして「普通」に生きていればいいやと思い込んでいれば、良いのかもしれない。だけど、そういうフリはできるかもしれないけど、どこまで行ったってフリだけだ。

わたしたちは、すでに「暴力」にさらされているし、そして気がついてしまってる。たとえ毒を飲まされていなくても、実際に殴られていなくても、炎に焼かれていなくても。気がついてしまった、この傷は消えない。


そして、もう一つ、二つの映画が示す、ほんのわずかな希望の光ー。

海からの毒で病に苛まれた子を思う

炎に包まれ、助けられたのに死んでしまった子を思う

残された者たちの気持ちと願い 

ー生きて、生きなきゃとー

わたしは、たった今、生きている。

そう気づかせるのも、また、このわずかな傷ー。















この記事が参加している募集

映画館の思い出

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?