「フツウ」を求める終わりなき旅

いつ頃からだろう。私は「世間一般」「普通」「マジョリティ」であることを切望していました。どこかで、「自分はどこか一般的な人とは違うのかもしれない。何かが欠けているのかもしれない。」という潜在的な恐怖があったのかもしれません。

「自己肯定感の低さ」「自信のなさ」を埋めてくれるのは、「大丈夫。自分は大多数の人と同じところにいる。同じ行動を取れている。」という安心感。その形のない曖昧な安心感を得ることが、32歳までの私の行動の動機になっていたのかもしれません。

※文中の「フツウ」とは、その当時の私が考えていた「世間一般の普通とはこういうものだろう」という「主観的な概念」です。漢字の「普通」とは区別して書いています。

学級委員というプレッシャー

小学校では、学級委員を何度かやりました。立候補はしていないので、推薦されていたのかな?と思います。小さな頃から習い事をたくさんしていたこともあり、勉強も運動もそこそこ得意でした。なので、目立っていたのかもしれません。学級委員をやると、どうしても前に出て皆を率いるという役目を担います。でもその位置にいる私はなんだか居心地が悪かったことをよく覚えています。本当は、「学級委員ではないその他の皆と同じところ」に所属したかったのかもしれません。

海外の学校へ

中学校1年~3年まで、父の仕事の関係で海外に住んでいました。インターナショナルスクールに通うことになり、多国籍の人の中で慣れない英語でのコミュニケーションや授業に対応することになります。日本人駐在員の多い都市だったこともあり、インターナショナルスクールなのにクラスの半数以上が日本人でした。マジョリティーが日本人だったのです。そこでも私は、「せっかくの機会だから外国人と仲良くなりたい、そうすべき」と思いながらも、マジョリティである「日本人と群れる」という選択をしました。いずれ日本に帰国する予定だったので、日本に帰国しても「フツウの日本人」として受け入れてもらえるように、日本で流行っている音楽や漫画を研究して、乗り遅れないように必死でした。

帰国子女ばかりの高校へ

帰国後入学したのは帰国子女ばかりの高校でした。小さな頃から海外で育った人達も多く、日本語より英語が得意という人も多くいるような、少し異色で個性的溢れる学校でした。今思うと、本当に素晴らしい環境で素晴らしい学校でした。でも、私は、その中にあっても、「私はフツウの日本人の高校生になりたい」と切望し、その当時流行っていたルーズソックスを履きポケベルを持ちカラオケで安室ちゃんを歌い、大衆の流れを敏感にキャッチしながら、マイノリティーにならないように必死に女子高生をしていました。付属の高校だったのでそのまま大学に上がる選択肢もありましたが、「帰国子女ばかりのこの環境はフツウではない。私はフツウの大学生になりたい。」という理由で、外の大学を受験するという選択をしました。

「フツウ」の大学生らしい大学生活を求めて

入学した大学では、「サークルに恋愛にアルバイトに色々楽しみながら、時々勉強」というようないわゆる「ザ・文系大学生」的なキャンパスライフを期待していました。入ったのは、テニスサークル(飲みもテニスも結構しっかりやる準体育会系)。アルバイトもいくつか掛け持ちし、恋愛も(苦労もありながらも)楽しみ、勉強もそれなりに要領良くこなしていました。ようやく、自分があこがれていた世間一般的「フツウ」の生活を手に入れた(と思っていた)のです。あぁ、書きながら、本当にイタイ、イタイ(汗)。胸が苦しいしちょっと胃もキリキリするのですが、当時の私は必死でしたしこの生活が本当に楽しかったのです。そして、就活。周りに遅れを取らないように、真面目にきちんと就活しました。周囲の大半が目指していた、「企業就職」を私も当たり前のように目指しました。大学のガイダンスにも参加し、OBOG訪問もたくさんして、友人に「私ってどういう人?」と聞きながら自己分析をし、SPIの問題集も3・4回繰り返し解きました。いわゆる就活でやるべき事は地道に一通りやりました(これが今の仕事に役立っています!)。「自分が何をしたいか」ももちろんありましたが、「フツウに就職して働く」ということが漠然なゴールかつ必至のゴールになっていたように思います。

社会人になってからも続く「フツウ」への切望

正直、社会人になるまでの人生は、一般的に見ると大きな問題もなく順調でした(基本的には自己肯定感は低いので、恋愛では色々問題はありましたが(^-^;)。社会人にになってからは、いよいよ「私は何か欠けているのかもしれない」という事を現実的につきつけられることになります。このあたりはまた追々書いていくとして。新卒で入社した会社は、いわゆるザ・日本企業的なメーカーでした。50名近くいた同期も、似たような境遇で育ってきた人達も多く、安心して集団になじむことができました。数年間は仕事も楽しく、充実した日々を送っていたのですが、この頃から、「いつも忙しい」「何かに追われている」「働きすぎると抜け殻になり朝起きれなくなる」「意味不明の体調不良が続く」という原因不明の心身の不調が出てくるようになります。今考えると、これらは全て自分自身が招いた事であり自分の「内側」が原因なのですが、まだ未熟な当時の私は、「転職をすれば何かが変わるかも」「環境を変えれば良くなるかも」と、自分の「外側(仕事・環境」を変えることにしか意識がありませんでした。なんとかしてこの辛い状況から脱したいという後ろ向きな気持ち半分と、「新しい何かに挑戦したい・成長したい」という前向きな気持ち半分を胸に、「転職するなら20代後半までに」という世間の転職ルールに忠実に転職をしました。

「フツウ」のさらなる追求と加速する心身の不具合

これだけ「フツウ」を求めてきたので、私はヒット曲やヒット番組、世間的にウケることが何なのかのアンテナはかなり敏感だったように思います。そして稚拙ながら、その自分の「一般人としての感覚」を活かしてもっと自分を成長させられる仕事って何なんだろうと思い、広告代理店への転職をします。いわゆる「マスコミ」というのは、「マスコミュニケーション」なので、マス(大衆)に向けてコミュニケーションをすることが目的となります(実は大学もマスコミ関係の専攻でした)。元々「人」や「人の心理」にはすごく興味があったので、その延長上にある「マスの心理」についてもっと知りたい、極めたい、そしてそれをクライアントの求めるニーズに応えるために活かしたい、そんな向上心を持ちながら挑んだ転職でしたが、そんなに甘くはありません。自分の考えの甘さ、人格的な浅さ、体力気力のなさ、能力の低さが露呈され、ストレスに押しつぶされるようになりました。この頃から、顔中にニキビができたり、家に帰って化粧も落とさずソファでそのまま朝まで眠ってしまったり、朝シャン(古い表現、笑)して髪が濡れた状態でそのまま出社したり、本当に痛々しい仕事の仕方をしていました。あきらかに「何かが間違っている」のに、それに気が付くのが怖くて、見て見ぬふりを続けていました。

最後のあがき、「フツウ」の結婚と出産へのあこがれ

それでも、20代後半30代前半の女性として「フツウ」でありたい気持ちに忠実でした。アイドルのおっかけもしたし、ネイルもしたし、合コンもゴルフもしたし、傍からみるとイケイケ女子でしたね(苦笑。これを普通とおもっっていた時点で偏っているのですが)。でも、心はスカスカでした。自分が何をしたいのか、何を求めているのが全くわからなくなり、感覚がマヒしていたんですね・・・。そして、友人の大半が皆結婚をしだしたこの頃、私も同じように結婚を意識します。20代後半で結婚して、子供は2人はほしい。そんな「フツウ」をまだ求めていました。でも、神様はそんなに甘くなかったんです。「もういい加減にしなさい。目を覚ましなさい!!!【フツウ】ではなく、【自分】を取り戻しなさい!」そうお叱りの言葉が聞こえてくるような、ショッキングな出来事が32歳の時に起きました。その当時、結婚を前提にお付き合いを始めた男性との婚約が破綻になったのです。

<続く>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?