Rie

小さい頃から精神的な苦しさに答えを求めていました。20代で鬱になり30代で寛解したのを…

Rie

小さい頃から精神的な苦しさに答えを求めていました。20代で鬱になり30代で寛解したのをきっかけに、心の探求をはじめました。 今辿り着いたもの *A course in miracles *聖書 指針としている言葉 *God is *Memento mori 汝死を忘る勿れ

最近の記事

本当の選択の場所に立って

人生にはいつもそれなりに何かしら問題があって大変なのだと疑わなかった。 自分のことでも世界のことでも、問題と感じることを見る度に、どうにかしようとか諦めるとか、受け入れるとか助けてもらうとか、そんな風に当たり前に思考していた。 自分の人生も世界だって、良くしたいと当たり前に思っていたし、それ以外の視点や価値観など私の人生には無かった。 問題が出現しているのは、私が私の(分離した)心(の投影)を見ていただけで、見ることで「やっぱり(分離は)あるじゃん」と信じるためのものだった

    • 内観とそこからの祈りは、時間と空間(現実)を超えたところに自分を移動させる。そうするなら全てが変化する可能性、全く違うものを見る、経験するのは当然。現実の中に留まっていては何もないし、仮にある変化も一時的で、救いでも癒しでもないループ。

      • 0に戻してから

        昨日は2回目のオッペンハイマーを見てきた。1回目では全く気づいてなかった部分に驚いた。超重要、要と思われる台詞をなんと聞き逃していた私…。 1回目でそれなりに理解できたとまで思っていたからこそ(予習してから見たし)、自分の理解度と注意力の低さに笑ってしまった。(ディスってない。そんなものです。)全然芯を掴めてなかったじゃんー(笑)と。配信されたらまた見よっと。 もちろん、「その時の自分に合う量しか」見えないし入ってこないという当たり前のことでもある。 で、今回芯を掴めてな

        • 逆さまな世界に生きて

          教会に通いはじめてから知ったのは、キリスト教はいわゆる宗教(不安や比較を持って繋がったり階級があったりどこか閉鎖的なイメージ)では全くないということでした。 牧師ももちろん人はみな罪人(犯罪ではなく神から離れたという意味)として平等であるということ。 だからこそ、イエス・キリストを通して(神の家族として)出会い、神を証しし合い、励まし祈りあって心で繋がるその関係は、とても爽やかで心地よいあたたかいものでした。 情(感情や常識からくるエゴ的なもの)ではなく、「変わらない永遠

        本当の選択の場所に立って

        • 内観とそこからの祈りは、時間と空間(現実)を超えたところに自分を移動させる。そうするなら全てが変化する可能性、全く違うものを見る、経験するのは当然。現実の中に留まっていては何もないし、仮にある変化も一時的で、救いでも癒しでもないループ。

        • 0に戻してから

        • 逆さまな世界に生きて

          癒し

          イースターを終えて一段落を感じてホッとしている。思えばクリスマス頃と今月が特にしんどかったな。(嫌ということではなく、真理への抵抗が身体や感情に溢れたからという意味で) 秋から半年、自分に起きてることを受け入れ続けることに必死になってきて今は嬉しい疲れを感じている。 上から見れば「これからはじまっていくんだよ!」というツッコミも聞こえるが、私の中に確かに風が通りはじめて、確信が生まれて確信を見るようになって、こんなに助けられてわからせてくれていいの?と驚きながらも、でもこれこ

          オッペンハイマーアカデミー賞7部門㊗️ 自分がしたことに苦しみ答えが出ないまま人生を終えた彼、その姿こそ彼こそが私(たち)なんだ。

          オッペンハイマーアカデミー賞7部門㊗️ 自分がしたことに苦しみ答えが出ないまま人生を終えた彼、その姿こそ彼こそが私(たち)なんだ。

          自由を求めて

          本当に感じていることを隠さず話していい、というかそれを話すことだけがが求められるという時間、関わりあい、機会が、現実に多くなってきている。それはとても面白く前向きで、生きている躍動を感じられる喜びだ。 なぜなら本当のことを話さないと何とも「繋がれない」からだ。(表面的に繋がっているようにはいくらでも捏造できるが)そして私はそうしなければどこにも進めない。 今までそれを出来てなかった(限られた場でしか)のは私の勝手な決断だけで、初めから全てがそうでよかったのに、そうしてこなかっ

          自由を求めて

          既に赦されている道に

          人生は一本道で続いているのではなかった。 垂直にと言うのか、上にというのか、戻れない大きな曲がり角というのか、今までのものの意味ごとひっくり返るというのか、元に、本来に戻ると言うのか、それらはただの(悪)夢だったというのか、マトリックスに気づくというのか、私1人(しかいない)だけズレていた、というのか、急に途切れるというか、突然に見えるあらわれ、時がくる。

          既に赦されている道に

          はじまりとおわりが起こるところで

          この数年間「学んでいる、求めている」と言っていても一体何をしていたのか…と思うほど(この期間があったからこそなのはわかっているけれど)、ずっと求め続けてきたことがこの数ヵ月で一つずつ丁寧に除外することなく繋がってきている。 人生の全てにおいての疑問が、ひとつひとつ確実に解決されていっていることに喜びとありがたさが増している。 それらは簡単に言ってしまえば、「人生の全てを一言たりとも言い訳せず丸ごと受け入れてはじめて、スタートなんだ」ということ。 僅かでも「こんなはずじゃ」

          はじまりとおわりが起こるところで

          意味のない世界

          最近繰り返し耳にし心に置いている言葉 ☆リアルorリアルではない、を区別し受け入れる(実相と幻想、真実と現実) ☆白旗を上げること まだまだこの道のりは 途方もなく遠いかもしれないし 近いかもしれないし それは私には全くわからないけど 確かに今まで見つけられなかった道に やっと入りはじめたと感じていて その証拠に 小さい頃からの誰にも言わなかった悩みやどうしようもない苦しさ(見えるレベルの悩みではなく感じてしまうもの)が、気づいたら無くなっていた それもひとつではな

          意味のない世界

          光のあるところで

          世界に苦しみや悲しさ、混乱や怒りを見るとき、それが誰かや世界のものではなく私自身の心の苦しみや嘆き、過去なのだと認めます。これらを維持させているのは私の決断なのだと認めます。 そしてこれらが真に癒されていくことを望みます。委ねます。私の思うとおりではなく御心が常に行われますように。 今この瞬間から癒されることを受け入れられるよう、またすべては既にゆるされていることをどうか私にわからせてください。 そして、ゆるされていくことも本当は存在しないことをわからせてください。痛みや苦し

          光のあるところで

          祈りの通りに

          Facebookの通知で去年書いたものを見て驚いた。本当に一年、この通りを味わったから。 去年は、夫と2人お互い今まで味わったことのない経験をした。内的にも外的にも混乱と気づき、癒しと学びがあった。どうしたらいいのだろうと困ったときや恐怖が上回る時には、スタンプラリーをしているかのように答えがその場に行くと(その時が来ると)、与えられるみたいなことが起きていった。そこには最終的にいつも安心と静けさがあった。ひとつひとつ理解が起きたしホッとした。悲しさや寂しさや恐怖はあった。

          祈りの通りに