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小さい頃から精神的な苦しさに答えを求めていました。20代で鬱になり30代で寛解したのを…

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小さい頃から精神的な苦しさに答えを求めていました。20代で鬱になり30代で寛解したのをきっかけに、心の探求をはじめました。 今辿り着いたもの *A course in miracles *聖書 指針としている言葉 *God is *Memento mori 汝死を忘る勿れ

最近の記事

祈りは願いを手放すためだったんだ。

    • 大丈夫と思うことが心の底からでなければ、むしろ大丈夫と思う度、言う度、「大丈夫じゃない」を強める反動形成になる。それは癒しの全く逆の歩み。真理を学びながらも、常に全てをさらけ出す、許容するという、どんな自分にもどんな思いにも直面する意思が必要…。

      • 心配事がなくなることで安心するのではなく、心配ごとをどうにかしてほしいと祈るのではなく、心配として見て苦しみ続ける、執着している私の心を変えていけるよう進まなきゃいけない。祈らなきゃいけない。 そのために、何が真理かを頭からも学ばなくてはずっと現実という結果に追われて終わる。

        • 心が納得するまで、頭で先を越して終わらせないこと。

        祈りは願いを手放すためだったんだ。

        • 大丈夫と思うことが心の底からでなければ、むしろ大丈夫と思う度、言う度、「大丈夫じゃない」を強める反動形成になる。それは癒しの全く逆の歩み。真理を学びながらも、常に全てをさらけ出す、許容するという、どんな自分にもどんな思いにも直面する意思が必要…。

        • 心配事がなくなることで安心するのではなく、心配ごとをどうにかしてほしいと祈るのではなく、心配として見て苦しみ続ける、執着している私の心を変えていけるよう進まなきゃいけない。祈らなきゃいけない。 そのために、何が真理かを頭からも学ばなくてはずっと現実という結果に追われて終わる。

        • 心が納得するまで、頭で先を越して終わらせないこと。

          自分が神を忘れて離れることで苦しみを見ているのに、その場から神に向いて歩こうとせずに、その場に居たままどうかお願いしますとどの口がいうのか。(幻想に真理を持ってくるのではなく、真理に幻想を運ぶ。)神を賛美しながら実は神を冒涜していることになっていたりする。人間の弱さ。

          自分が神を忘れて離れることで苦しみを見ているのに、その場から神に向いて歩こうとせずに、その場に居たままどうかお願いしますとどの口がいうのか。(幻想に真理を持ってくるのではなく、真理に幻想を運ぶ。)神を賛美しながら実は神を冒涜していることになっていたりする。人間の弱さ。

          安心を自分で作ろうとするとズレていくんだな。思いも考えも全て差し出したあと、待ち望み与えられる心から染みだす安心が本物で、だからそれは神からのもの。

          安心を自分で作ろうとするとズレていくんだな。思いも考えも全て差し出したあと、待ち望み与えられる心から染みだす安心が本物で、だからそれは神からのもの。

          望むのは自由だ。でも叶えれるかは導きによる。準備が出来た後にどうぞと導かれるまで、コントロールしたり卑下したりせず、神を見上げて、悔い改める。やるべきことも全て示される。望みに近づけるよう神は働いてくださる。その道に従うことだけが、決して何も奪われない本当の幸せの道。

          望むのは自由だ。でも叶えれるかは導きによる。準備が出来た後にどうぞと導かれるまで、コントロールしたり卑下したりせず、神を見上げて、悔い改める。やるべきことも全て示される。望みに近づけるよう神は働いてくださる。その道に従うことだけが、決して何も奪われない本当の幸せの道。

          治そうとするのはコントロールなんだ。それと私がひとつになるきっかけが来てるだけなんだ。現れたものは私が私のなかにあることを許さずに投げた(投影)したもの。祈り・私が拒否していたことを許してください。それを怖がらず心を開いて自分に戻すことが出来るようどうか助けて導いてください。

          治そうとするのはコントロールなんだ。それと私がひとつになるきっかけが来てるだけなんだ。現れたものは私が私のなかにあることを許さずに投げた(投影)したもの。祈り・私が拒否していたことを許してください。それを怖がらず心を開いて自分に戻すことが出来るようどうか助けて導いてください。

          本当の選択の場所に立って

          人生にはいつもそれなりに何かしら問題があって大変なのだと疑わなかった。 自分のことでも世界のことでも、問題と感じることを見る度に、どうにかしようとか諦めるとか、受け入れるとか助けてもらうとか、そんな風に当たり前に思考していた。 自分の人生も世界だって、良くしたいと当たり前に思っていたし、それ以外の視点や価値観など私の人生には無かった。 問題が出現しているのは、私が私の(分離した)心(の投影)を見ていただけで、見ることで「やっぱり(分離は)あるじゃん」と信じるためのものだった

          本当の選択の場所に立って

          内観とそこからの祈りは、時間と空間(現実)を超えたところに自分を移動させる。そうするなら全てが変化する可能性、全く違うものを見る、経験するのは当然。現実の中に留まっていては何もないし、仮にある変化も一時的で、救いでも癒しでもないループ。

          内観とそこからの祈りは、時間と空間(現実)を超えたところに自分を移動させる。そうするなら全てが変化する可能性、全く違うものを見る、経験するのは当然。現実の中に留まっていては何もないし、仮にある変化も一時的で、救いでも癒しでもないループ。

          0に戻してから

          昨日は2回目のオッペンハイマーを見てきた。1回目では全く気づいてなかった部分に驚いた。超重要、要と思われる台詞をなんと聞き逃していた私…。 1回目でそれなりに理解できたとまで思っていたからこそ(予習してから見たし)、自分の理解度と注意力の低さに笑ってしまった。(ディスってない。そんなものです。)全然芯を掴めてなかったじゃんー(笑)と。配信されたらまた見よっと。 もちろん、「その時の自分に合う量しか」見えないし入ってこないという当たり前のことでもある。 で、今回芯を掴めてな

          0に戻してから

          逆さまな世界に生きて

          教会に通いはじめてから知ったのは、キリスト教はいわゆる宗教(不安や比較を持って繋がったり階級があったりどこか閉鎖的なイメージ)では全くないということでした。 牧師ももちろん人はみな罪人(犯罪ではなく神から離れたという意味)として平等であるということ。 だからこそ、イエス・キリストを通して(神の家族として)出会い、神を証しし合い、励まし祈りあって心で繋がるその関係は、とても爽やかで心地よいあたたかいものでした。 情(感情や常識からくるエゴ的なもの)ではなく、「変わらない永遠

          逆さまな世界に生きて

          癒し

          イースターを終えて一段落を感じてホッとしている。思えばクリスマス頃と今月が特にしんどかったな。(嫌ということではなく、真理への抵抗が身体や感情に溢れたからという意味で) 秋から半年、自分に起きてることを受け入れ続けることに必死になってきて今は嬉しい疲れを感じている。 上から見れば「これからはじまっていくんだよ!」というツッコミも聞こえるが、私の中に確かに風が通りはじめて、確信が生まれて確信を見るようになって、こんなに助けられてわからせてくれていいの?と驚きながらも、でもこれこ

          オッペンハイマーアカデミー賞7部門㊗️ 自分がしたことに苦しみ答えが出ないまま人生を終えた彼、その姿こそ彼こそが私(たち)なんだ。

          オッペンハイマーアカデミー賞7部門㊗️ 自分がしたことに苦しみ答えが出ないまま人生を終えた彼、その姿こそ彼こそが私(たち)なんだ。

          自由を求めて

          本当に感じていることを隠さず話していい、というかそれを話すことだけがが求められるという時間、関わりあい、機会が、現実に多くなってきている。それはとても面白く前向きで、生きている躍動を感じられる喜びだ。 なぜなら本当のことを話さないと何とも「繋がれない」からだ。(表面的に繋がっているようにはいくらでも捏造できるが)そして私はそうしなければどこにも進めない。 今までそれを出来てなかった(限られた場でしか)のは私の勝手な決断だけで、初めから全てがそうでよかったのに、そうしてこなかっ

          自由を求めて

          既に赦されている道に

          人生は一本道で続いているのではなかった。 垂直にと言うのか、上にというのか、戻れない大きな曲がり角というのか、今までのものの意味ごとひっくり返るというのか、元に、本来に戻ると言うのか、それらはただの(悪)夢だったというのか、マトリックスに気づくというのか、私1人(しかいない)だけズレていた、というのか、急に途切れるというか、突然に見えるあらわれ、時がくる。

          既に赦されている道に