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癒し

イースターを終えて一段落を感じてホッとしている。思えばクリスマス頃と今月が特にしんどかったな。(嫌ということではなく、真理への抵抗が身体や感情に溢れたからという意味で)
秋から半年、自分に起きてることを受け入れ続けることに必死になってきて今は嬉しい疲れを感じている。
上から見れば「これからはじまっていくんだよ!」というツッコミも聞こえるが、私の中に確かに風が通りはじめて、確信が生まれて確信を見るようになって、こんなに助けられてわからせてくれていいの?と驚きながらも、でもこれこそ求めていたことで、嬉しく、もっともっと先に進みたいと思うのだった。
この半年、怖いことが次々に起きた。コミュニティに入る(人と関わる)と、傷(として私が保存しているもの)が触れる。なんでたったこれしきの事で、なんでこんなわずかなことで私は不安になって心配で怖くて疲れるんだろう、気が消耗されるのだろうと。毎週毎週くたくただった。それでももうそれらが嫌だから、その都度起きたことを使って内観して(思い込みの源を探して)、これらが癒されるようにと祈り続けて、機会が来るのを待つ。ただその繰り返しをしながら関わり合っていくと、「なんで私はこんなに不安になることを愛していたんだろう、馬鹿らしい」と思える、「私が間違っていたと思える経験」が起きていった。そこには導きと助けがあったのを見た。本当に私の勝手で「この人感じ悪いな~」とか「怖いな~」と思っていたのに、その人と関わる機会が自然にやってきて「その人とだからこそのとても楽しく豊かな時間」を味わってびっくりしたり。そういう自分のネガティブな思いがひっくり返されていく現実は鮮やかだった。本当にこのようなこと(救い、癒し)が起きるんだと信頼させてもらえた。

癒しとは、嫌な(苦しい、悲しい)ことを無くそうとするのではなく、その「一番嫌なことを使って」自分が正され、今まで気づいていなかった喜びに近づいていく。近づかされていくことだった。
無くそうとすれば、また傷を保存してしまう。それ(保存)は一見痛みを感じないから優しく、一見癒しに感じるけれど、実はそれが自分の苦しみを増やしてしまっている。
イエスと(聖霊と)共にいるなら、真に祈れるなら、傷に触れること(痛み)は祝福なのだった。

https://www.bible.com/bible/1819/jhn.14.6.%e6%96%b0%e5%85%b1%e5%90%8c%e8%a8%b3


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