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0に戻してから

昨日は2回目のオッペンハイマーを見てきた。1回目では全く気づいてなかった部分に驚いた。超重要、要と思われる台詞をなんと聞き逃していた私…。
1回目でそれなりに理解できたとまで思っていたからこそ(予習してから見たし)、自分の理解度と注意力の低さに笑ってしまった。(ディスってない。そんなものです。)全然芯を掴めてなかったじゃんー(笑)と。配信されたらまた見よっと。

もちろん、「その時の自分に合う量しか」見えないし入ってこないという当たり前のことでもある。

で、今回芯を掴めてない理由のひとつに気づいたのは、「感情的になって見たから…」という点。今回は特に、実話だし、これが日本に…とわかっていながら見るのは大分心が揺さぶられて、音楽もさながら迫って来るタイムリミットに怯えていたから、要は「心が追いかける部分しか」見れてなかったということに気づかされた。
感情的になっている時の視野の狭さがどれほどか。人間(肉体として、自我として)の弱さを今日もこうやって自覚する。自分の心が揺れていたら、焦点はそこに持っていかれるのだから、目の前のものを遮断しそのままに理解したり受け入れる余白などほぼなくなる。聞こえてるし見てるけど、受け取れてない。身体として見た聞いただけ。そこに何か意味のあるものなんて生まれるのかしら…。

映画に関しても、早くわかったもん勝ちでもないのだから何の問題もない話ではあるけど、感情的であるときの視野の狭さを、思わぬ形で体験出来て良かった。映画でそうなんだから実生活だったら、さらに「何も見えてない」のだ。

この「何も見えてない」「焦点がズレている」(肉体、自我)を「本質」(霊、全て)に戻していくのが、内観だし真理を知ること(祈りの原点)だし、受け入れられない(信じられない、わからない)真理に心を開く日々の積み重ねが、私の今の「生きる目的」になっている。

(そもそもノーラン作品は、全部それなりに難しい。複雑に入り組んで作られているからこそ一回でわからないからこそ楽しい。熱狂的ファンが多いのも、わからないからわかっていく過程が他にはない楽しみだからかと。考察動画を助けにしながらいつも夢中になってしまう。今回はヒューマンストーリーなので大分シンプルだけどその分セリフと登場人物が多かった。見ごたえはありすぎる。母に勧めたらすぐ見に行くというので、さすがに予習用の動画を教えた。3時間で長いと思ったけどむしろすごい内容量でよく収めたよね…と感想を言いあった。)

わからない繋がりでいうと、聖書も奇跡のコースも全然わからない!。文章は読めるけど、書いてある意味が「どうも自分の思う意味とは違うのだろう」というところに立ってから、急に楽しくなってくる。そしてもっと教わりたくなる。求め始める。優先順位が入れ替わっていく。
「やらなきゃいけないと自分を焦らせる物事」よりも、「これを解決してからじゃなきゃだめという自分で決めた順番」よりも、真理を求める方が(祈る方が)日々の一番上に上がって来る。
自分がどれだけこの真理を(知らなかったはずなのに)求めていて、思い出したくて、忘れていた、かもしれない…?と頭に「余白のようななにか(?)」が生まれ、これはヤバイ(かも)となって来る。
自分の人生に現れたことが「決して偶然じゃない」と受け入れ始める冷静さ(冷や水のよう)が目の前に来てる、もう浴びていることに近づく。本気になる。
今までの人生も、偶然なんか一つもなかったと、私の考えより人生の方がよっぽど大きいのだと受け入れ始められる。


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