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逆さまな世界に生きて

教会に通いはじめてから知ったのは、キリスト教はいわゆる宗教(不安や比較を持って繋がったり階級があったりどこか閉鎖的なイメージ)では全くないということでした。

牧師ももちろん人はみな罪人(犯罪ではなく神から離れたという意味)として平等であるということ。
だからこそ、イエス・キリストを通して(神の家族として)出会い、神を証しし合い、励まし祈りあって心で繋がるその関係は、とても爽やかで心地よいあたたかいものでした。
(神は愛なのだから当然なのですが)

情(感情や常識からくるエゴ的なもの)ではなく、「変わらない永遠の真理」を真ん中に置いて繋がるとてつもない清々しさを感じます。
それはクリスチャンの心の持つ「自由さ」でもあるのだと感じます。

神の元で(真理の元で)の関わりは、この世的ないわゆる「好き嫌いの繋がり」とは違うのでした。神の元で、信仰の元で、私が自立しているとき、好き嫌いの情にだけ頼って判断するなどする必要がなかったのです。
全てが等しく愛しく素晴らしい出会いと機会にしかならないのでした。

奇跡のコースは、既にイエスキリストによって赦されたのだからこの罪人(つみびと)としての知覚自体も幻想(夢、実在しない)と言っているわけです。目覚めた後の視点からのものです。

クリスチャンとして信仰がある人も、この赦し(ゆるし/贖い)を、罪人という自覚と悔い改め、信仰(告白)により受け入れているので、この世界に生きながら、何があっても常に心に平穏があり守られ、だからこそ自由で優しく愛があり親切に生きられると感じます。
信仰と祈りがベースにある生活は常に、目に見えるものとは別の次元で安心感が流れています。そちらがその人のリアルになるのです。

通いはじめた頃、この世界と教会は逆だなぁと感じていました。教会、聖書から見ると、この世は全く逆さまなのです。この逆さまな感じに随分戸惑ったものでした。

でもこの世界と教会は信仰と祈りで繋がっています。逆さまなものの中で身体を持ち生きながら、何があってもそれを苦しみとだけ見ず、苦しみをきっかけに祈りに心を向けられる恵みを感じる、そのようなに、祈る時に平安さに繋がることが出来るのだと感じます。

逆さま自体を直そうとするとまた違います。そこには否定があって戦いしか生まれません。(自分を否定するか自分以外を否定することになる)
世界を否定するなら、神を否定しているし、その否定が循環するだけ。
だから、苦しみを(罪の)結果として見て受け入れるとき、本当の祈りの入り口に入れるように感じます。(願いではない)
いわゆるこの世的な願いは世界の否定なのだと感じます。けれど、本当に恵みしかないのは、その願いからも必ず祈りに導かれることです。
どこにいてもどこからはじめようとも、「いつか導かれる先」は、「いつかやっと私が選択出来るようにならせてもらう先」は、全てを受け入れ全てと繋がり、ただ与えられる安心と平安でしかないのだと思います。

これらもまた、神の御心によって、神の愛によって、イエス・キリストを御子として十字架につけることによって、罪のゆるしがなされたことから受け取れる恵み。
罪人はどこまでも無力です。どこまでも間違えます。でもだからこそ恵みに感謝できます。受け取ることしか出来ません。でもだからこそ自分から出るものが、(自分勝手に自我の思いだけで生きてきた)欲に踊らされたものではなく、少しずつでも愛そのものに変化させてもらえるのだとも感じます。

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