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本当の選択の場所に立って

人生にはいつもそれなりに何かしら問題があって大変なのだと疑わなかった。
自分のことでも世界のことでも、問題と感じることを見る度に、どうにかしようとか諦めるとか、受け入れるとか助けてもらうとか、そんな風に当たり前に思考していた。
自分の人生も世界だって、良くしたいと当たり前に思っていたし、それ以外の視点や価値観など私の人生には無かった。

問題が出現しているのは、私が私の(分離した)心(の投影)を見ていただけで、見ることで「やっぱり(分離は)あるじゃん」と信じるためのものだった。問題が問題なのではなく、問題を信じてることが問題なのだった。
この世界を実現させ、維持するには、分離していないといけないのだから。
「これは問題だ、苦しい」と信じている時点でもう世界に両足が浸かっている。世界の中にいて既にはじまっていて進んでしまってる。生まれて気づいたときにはもうそうだったのだけど。
ここで私が何をしてもどんなに時間をかけても同じところにしか辿り着かない。この世界の中から出られない。

(奇跡のコース(A course in miracles)や聖書を読みはじめた理由のひとつは、この世界の一番端までいっても私がすべての願いを叶えても、実は全く何も変わらないのでは?という気づきにさすがに決着をつけたかったからだ。この二つに見えるけど同じものに登場するのは神とイエスと聖霊だ。)

人生をより良くしようと望むのも動機によっては同じような話で、景色も体験も感情も感覚も良いものになるかもしれないが、所詮この世界の中でのことだ。どんな人生だろうか変わりなく寿命がくれば終わる。不幸だろうが幸せだろうが、どっちにしろ「死が結論、結末」には変わりがない。
幸せだからどう、不幸だからどう、とか、良くしていく自体、この世界自体を疑って飛び越える場所に立つ、それが本当の選択なのだった。死についても、終わりについて本気で向き合うとき、終わらないこと(死がないこと、永遠のいのち)が見えてくる。

この人生、死を、この世界自体を超える、私自体を越える、その取り組みを今はしている。
取り組んでいるなんていっても、大きなことをしているわけではなく、日々の中で、色々出来事は起きる中で、助け支えてもらいながら、祈ってもらいながら、問いかけながら、祈りながら何とかしがみついている。これをしたところで世間的な目からは何も見えないし、誰のためでもなく(むしろ他人はいないと気づけてくる…)、ただ地道に少しずつ開いてきている気づきを目印にして。でも少しずつであってもこの気づきが喜びで仕方がない。同時に喜びを怖がる私も確かにいる。(奇跡のコースにあるように、私たちは愛を恐れているのだったということ)
この取り組みの中では「人生の辛いこと」が和らいだり変わったり、起きることも出会いも変わっていっていることももちろん沢山ある。
結果的に嫌だったことが無くなったり良くなったりしていることもあるから、私の人生の見た目的にも(少しずつではあるけど)「良くなっていてよかったね」というケースに写るのかもしれない。
けれど、私がやっていることは現実に向かっているのではなく、現実を捨てていっている。現実に力を見なくなっている方向に進めている。この世界のリアルさ、重力とか本物さがだんだんと薄れてきているとき、進んでいるなと感じる。
もう世界には依存をしない。だって信じられないけど世界は本当に無力らしいからだ。現実世界のことは今までの半分くらいの視力でチラ見しながら進んでいる。
使わなくてよくなった半分は、まだ見えてはいないけどうっすら感じているものに心を合わせるのに使っている。そこに心を合わせると、本当は今まで出会った問題は問題ではなく、私への呼び掛けだったのだと、見えるものと見えないものが逆だったのだと、私だけが逆だったのだと、わかってくる、私だけが逆行していたと認めざるを得なくなる。だから孤独が消えなかったのだ。本来の方向に帰りはじめなくては。
今日も本当は力のないものに惑わされず、真実の選択の場所に心を向けていられますように。

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