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30代前半の人間が介護される生活に慣れるまで

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あんなに嫌で仕方がなかった介護生活にもわりと慣れてきた。線維筋痛症と筋痛性脳脊髄炎(慢性疲労症候群)という2つの国の指定難病にされていない難病、全身にわたる激痛に極度の疲労感などの症状のせいで、私は二年ほど前から殆ど寝たきり状態で車いす生活だ。

介護生活が始まるまでは、介護なんて絶対に嫌だと強く思っていた。年齢もまだ30代前半で若い方だし、介護なんて何十年も先の未来のことだと考えていた。まさか、親の介護よりも自分の介護のが先に来るなんて思ってもなかったし、母に介護される自分なんて想像できなかった。

今回は、介護生活のはじまりから慣れるまでを語ろうと思う。


介護生活になった理由

そもそも、私になぜ介護が必要なのか。

ここで少し病気について説明すると、私の極度の疲労感などの筋痛性脳脊髄炎(慢性疲労症候群)的な症状はインフルエンザで39度に近い高熱が出ている状態に似ている。そんなときに外出先でまともに歩けるだろうか。病気が治ればいいのだが、私の場合はどんなことをしても基本的には治らない。その状態に加えて線維筋痛症的な全身の激痛などがあるのを想像してくれれば、なぜ寝たきり状態で車いす生活で介護が必要なのかわかるだろう。

私の場合は急に病気で介護が必要になった訳ではなく、徐々に病気が悪化して、気がついたら母に介護される状況になっていた。筋痛性脳脊髄炎(慢性疲労症候群)的な症状は前からあり、7年ほど前から杖をついて生活していた。しかし、数年前から線維筋痛症的な全身の激痛なども徐々に出てきて、二年ほど前から症状が悪化により、車いす生活になった。そうして、最低限の生活をするためにどうしても介護が必要になってしまった。


介護の始まり

介護されるようになってまだ日が浅い頃は、介護されることが嫌で泣きながら、母に手伝ってもらっていた。初めての介護のときは身体を触られるだけでつらくて思わずその場から逃げたくなったが、母に助けてもらわないと出来ないので、されるがままにじっと耐えるしかない。

介護されるようになってからわかったのだが、ズボンなどの着替えを手伝ってもらう時に右足から履くか左足から履くかが変わるだけで、ひとは「不自由さ」を感じる。無意識のうちに決めていた自分のルールが、介護というの共同作業で崩れていく。自力で着替えができた頃は左足から履いていたのにな…と思いながらも、別にそこまで拘っていないものだし、右足からでいいかと我慢する。だが、あれもこれもと我慢していくとそれらがストレスとなり、身体を思い通りに動かせない不自由さに耐えきれなくなってくる。

なぜ、母に助けてもらってまで、私はこんなにも毎日生きているのだろう。本当だったら、介護なんてされたくない。早く自分で好きなように動きたい。不自由からのストレス、そこから見える、動けなくて何もできない、惨めな自分。介護を拒否したくでも病気が良くならない限りできない。無力なの自分を突きつけられる。


それでも介護されながら毎日生きなきゃいけない

そんなある日、母が気分転換に私をショッピングモールへ連れていってくれた。介護生活になると、外出もひとりで出来なくなる。だから、誰かに連れていってもらうしかない。ふらりとひとりで外出するのが好きだった私にとって、ひとりで自由に出掛けられなくなるのは嫌で仕方がなかった。前はこのショッピングモールへ行くのも、ひとりで自由に気ままに行けたのに。

すると、母に「どこから見たい?」とショッピングモールの入り口で聞かれる。目的があるときはいいものの、ただ理由もなくウインドーショッピングしたい時にそう聞かれてしまうと、曖昧な言葉でしか表現出来なくなる。とくにこれといった目的がないのに、母にどこへ行くか具体的に言わなきゃいけない。どうしたらいいのだろう。試しに「ウインドーショッピングしたいだけなの。適当に動かして。」と伝えてみる。しかし、そう答えたら車いすをどう押していいか、母が困ってしまった。

まだ自力で歩いていた、あの頃。適当にウインドーショッピングしていた時も、本当は無意識のうちにルートを作って歩いていたことに気づく。ああ、私が動けたら適当に歩くことができるはずなのに。そう思いながら「ごめん、やっぱりここには用事ないや。とくに欲しいものはここにないし。」と悔しい気持ちを隠して母に言う。けど、それが母にも伝わってしまったのか「本当なら、自分で動きたかったよね。ごめんね。」と母が悲しそうな声をして車いすを押していた。


これ以上、母を困らせたくない。母をつらい気持ちにさせたくない。けど、外には定期的に出たい。それなら、外出先で目的のある行動をしなきゃいけない。そうして、理由もなく「なんとなく行きたいから」という曖昧な気持ちでプラプラ外出することを自主的に控えるようになる。また、病気のせいで選択肢が消えていく。介護に縛られて、自由じゃなくなる。介護されることで無力な自分に向き合いつつ、病気が悪くなって身体を動かす選択肢が徐々に減っていくのが苦痛で仕方がなかった。 


介護されることに対しての「慣れ」

でも、どんな苦痛も同じように繰り返せば、慣れが出始める。介護生活が始まって少し経ったある日、あれも出来ないこれも出来ない、惨めな自分が私の一部であることを受け入れ始める。すると、あんなに苦痛だった介護に、いつの間にか慣れ始める。病気で身体が自由に動かせないことにも、慣れ始めていく。そうやって、介護生活に対しての違和感が薄れていく。

ああ、これが私なんだ。この無力で介護される私こそ、私なんだ。そうして、ひとは介護される状況を受け入れていく。そして、生きていくのに必要な行為を他者に助けてもらうのが私の日常となる。これが私、私なんだと何度も言い聞かせて。


病状が変わると介護する内容も変わる。この二年で病気が悪い方向へ向かってしまったせいで、前よりも母の助けが必要とする瞬間が増えてしまった。なので、少しでも介護の負担を減らそうと自ら提案してお試しでヘルパーを使っている。あんなに介護を嫌がっていたのに。人間は良くも悪くも慣れてしまう生き物だ。 

けれども、この介護される環境に対しての「慣れ」は果たしていいのだろうか。このまま、この感覚をすんなりと受け入れてしまっていいのだろうか。ひとは生きている限り、良くも悪くも変わり続ける。私は介護に慣れたと同時に何かを失ったような気がする。この「慣れ」に少し危機感を抱きつつも、今日も介護されながら生きている。




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