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身体的都市で暮らす

私の持つ”暮らし”に対する考え方に1つの名前、または分類を施すとしたら、タイトルの通りになるかもしれないと思った話をしようと思う。

少しばかり真面目な話をするが、要所要所ふざけようと思うので、ぜひ私の本音を聴いておけい。(何かに似てると気付いた人がアラサーで存在していたらとても嬉しい)

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私は2020年に日本の建築デザインが学べる大学の大学院を卒業したのだが(最近YouTubeで海外のチャンネルばかり観ているので視点が若干ワールドワイド)、その時少しばかり教授陣を困惑させる論文を書いた。

論文では、建築やまちづくりなどの設計プロセスを可視化し、評価や解釈に役立てる試みを綴ったのだが、そこで最も私が力を入れたのが「植物比喩表現」という可視化の試みであった。
どんなプロジェクトも植物の成長に例えることができるし、この可視化方法でしか拾いきれない事象があると確信したことが最強の執筆モチベーションになったのだ。

数値が絶対視されがちな環境の中で頑なに数値を使わず「世界を数字で見るなぁぁああ!心で感じろぉぉお!」と言い放ち、アウェイな状況の中でもなんだか最後までやりきったようなのだから、良くも悪くも困惑されて仕方がない。終始ドヤ顔の私を最後まで受け入れ主査を務めてくれたT先生には感謝感謝である。

内容に関しては、主査のT先生の講評がとてもわかりやすいので興味がある方はご覧いただきたい。

そんな植物比喩表現に関して、今もなお考えを巡らすことがある。一体私は何のためにこういうことを考え抜いて、表現しているのだろうか。なんで植物と人間の行動を重ね合わせているのだろうと。そして最近「身体的都市」という名前にたどり着いたのだ。

この”身体的”というのは、私の尊敬する養老さん(世界で1番有名な虫が大好きな解剖学者さん)の言葉を借りている。

都市や情報社会・言語....脳の世界

自然や感覚....身体の世界

養老孟司さんの考え方

植物比喩表現という方法論は、身体的な都市を構築する上で必要な考え方なのではないか、そう思い始めたのだ。

”身体的”は”感覚的”と言った方がわかりやすい人が多いかもしれないが、”身体的”の方がより忠実にそのニュアンスを伝えることができる。でもようは、頭で考えたり意識したりするのではなく、五感で感じるということだ。

都市は普通、システマティックなルール化をされる。五感は場合によっては非効率なノイズであり、排除される場合があるだろう。そこに私の違和感は住み着く。

極端に表現するならば

身体的生活....山で自給自足で暮らすこと

都市的生活....インフラの整った都市で暮らすこと

吉井麻裕さんの考え方

この2つの間に「身体的都市での生活」がある。
身体的に暮らすことの豊かさと、都市的に暮らすことの豊かさをミックスした生活だ。この暮らしを考えることが、私の興味の対象になっている。

一体私は何のために
植物と人間を重ね合わせ(植物比喩表現)
ものづくりをしているのだろう

その答えは「身体的な都市でみんなとわくわくにやにやしながら暮らしたい」これに尽きることがわかった。

この気づきは、わかってしまえば大したことがないのだが、言語化するまでなかなかに苦しかった。それこそ身体的には理解できているものの、他者に共有が出来ないために議論が始まらず深めようがなかったのだ。

私の目指す身体的都市での生活は、何も都市計画を弄り回すとか、政治で革命を起こすとか、そんな大袈裟な行動は必要としない。五感に耳を傾けて、素直に生きればいいのだ。誰でもできそうでしょ?

ただ、壁や穴はいくつもある。壊したり作ったり、埋めたり掘ったり、その壁や穴になっている建築や人を、私は私にできる範囲で変えたいのだと思う。

最近は、古民家デイサービスとコラボレーションしてまちづくりの社会実験を行なったり、小さな調度品の制作を行なった。なんだか畑違いに感じるかもしれないが、私にとってはすべて同じ幹から伸びる枝葉なのだ。

身体的都市での生活を当たり前の暮らしにするために、できることをやっている。次は何をするのだろう?私にもわからない。

ただひとつ言えるのは、今もこれまでも、そしておそらくこれからも、こうやって生きているのが幸せだということ。思ったことはやってみて、違和感を感じたらやめてみて。身体的に生きるのが、楽だということ。
なんだかずっと幸せな気持ちだから、みんなにお裾分けしたくて、だからチームを大きくしたいと思ってるんだと思う。

これからもMKの動向に注目していてほしい。たぶん近い将来、幸せをお裾分けできると思うから。そうなれるようにがんばるから。

植物比喩表現の一例

Fin.
麻裕

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