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境界線上の奏・黄昏のジェミニ

  大学の法医学部時代、先輩にキャンプに連れて行ってもらったのを切っ掛けに、伊佐美 奏こと私は、以来ソロキャンプにハマってしまった。
これは、とある非科学的な現象のせいで、将来監察医になる夢を諦めた私の、一人旅の回顧録だ。

季節は蒸し暑い初夏、私は今、青森、十和田湖にある湖畔でソロキャンプを満喫していた。
大学を卒業し警察官を夢見ていた私は、自分の特異体質のせいで夢を諦める事になった。
その失意の最中、私を救ってくれたのがこの一人旅だ。
女の一人旅など危険だと厳格な両親には反対されたが、元々人付き合いも下手くそな私にとって唯一残されたパーソナルスペース。
そうそう諦められるものでは無い。

ロングチェアーに深く腰掛け、キンキンに冷やしたビールを手に取った。
ブルタブを引き上げると、濃厚な泡がシュワシュワと軽快に弾けだす。
慌てて口で啜り呑むと喉に爽快な味わいが広がっていく。

「これぞソロキャンの醍醐味ってやつだな……」

麦わら帽子を捲し上げ、ふと景色を見上げる。
山間からは眩い夏の雲が立ち昇り、初夏の光が湖畔に降り注ぐ。
水面が波立ち涼し気な風が、テーブルに置かれた本のページをパラパラと捲った。

私は買ったばかりの法医学書を手に取り開いた。
著者は私がよく知る人物、益田 智則。
法医学時代の恩師でもあった人だ。
私はこの人に数え切れない知識を賜った。
彼の見識は他者にはない、斬新な意見と精鋭的な見解に溢れている。
多種多様な角度から物事を観察し、真実を追求する彼の姿勢には本当に感銘を受けた。

「昼間からビール片手に読書ですか、羨ましい限りですね」

不意に男の声が聞こえた。
本から視線をずらすと、スタイルの良いスーツ姿の、見知らぬ男が一人立っていた。
歳は三十代前半といったところか、甘いマスクにインテリ眼鏡、年頃の女なら一目見て頬を赤らめそうなもんだが、私はこの手の男が苦手だ。

「だったら今すぐその硬っ苦しいネクタイ外してその辺にでも寝転がってろ、」

「これ、一応仕事着なんですよ、そういう訳にもいかないんです、奏さん」

「お前……警察関係者か?」

「おや?僕自己紹介しましたっけ?」

「ふん、名乗ってもないのに私の名前を知ってて、しかもスーツ姿でこんな所を彷徨く奴なんて限られてるだろ。仕事着?キャンプ場で営業してるって言うのか?」

「なるほど……益田先生から聞かされていた通りの人物のようだ。類希なる才能を持ちながら性格に難あり……あ、すみません、最後の一文は個人的見解です」

「おい、わざわざ私に喧嘩売りに……待て、益田先生?益田智則教授の事か?」

「ええそうです、現警視庁、検視官である益田智則先生です」

「なるほどな……先生繋がりか」

私は本を仕舞うとビールを手に取り不貞腐れ気味にビールを煽った。

「申し遅れました、僕はこういうものです」

男は物腰柔らかに名刺を取り出し手渡してきた。

「警視庁捜査一課係長……東雲 辰弥(シノノメ タツヤ)……あんたその歳で係長かよ……」

「おや、褒め言葉と受け取っても?」

「アホか、だとしたら警察も深刻な人手不足何だろうなと思っただけだ」

「手厳しいですね、まあ人手不足なのは否めません」

「それで、そんな深刻な問題を抱える警視庁の役人が、こんなところに何しに来たんだ?まさか息抜きに十和田湖まで来たなんてことは無いだろ」

「もちろん、僕もそんなに暇ではありませんので。今日来た理由は、法医学時代、益田先生の助手として難事件を解決してきた、貴女の力をお借りしたくてお邪魔したんです」

「法医学時代ねえ……」

──ベコッ。

私は言いながら缶を握り潰した。

「猟奇殺人者、虻川 庄司(アブカワ ショウジ)、現死刑囚の彼は今でも貴女の事を恨んでるようですよ……」

「久々に聞いたなその胸糞悪い名前……」

「でしょうね、彼が逮捕されたのは貴女のおかげですから、しかも貴女が警察官になる夢を諦めた理由にもなった出来事、ですよね?」

虻川 庄司。
連続殺人鬼と呼ばれた最悪のサイコパス野郎。
殺しを楽しみたいだけで九人の人間を拉致監禁し死に至らしめた。
私は過去、この男の被害者かもしれないという男性の死体に出くわしたことがある。
しかし遺体に外傷もなく被害者という証拠も得られなかったため、解剖許可がおりず、死体は証拠と共に闇の中に葬られそうになった。
だが、とある事が切っ掛けで、その死体に虻川が関与したという事を確信した私は、報告書を偽造し、益田先生と共に再度死体を解剖する事に成功した。
解剖により虻川が所持していた毒物と、死体に隠されていた毒物が一致し、奴は無事逮捕される事になったが、その引き換えに私は自分の居場所を失ってしまった。

「よく喋る奴だな……昔話より大事な用があるんじゃないのか?」

睨みつけるようにして東雲を見た。

「おっと、軽口が過ぎましたか……分かりました、本題はこれです」

そう言うと東雲は持っていた分厚いファイルを手渡してきた。

「ここ半年で起きてる女児連続誘拐殺人事件です……」

「連続?」

「はい、今のところ二人の少女が同じ手口で誘拐され殺害されています、そして今、新たな被害者が生まれようとしているんです……」

「何があった?」

「昨日、連続して起きた事件圏内から新たな行方不明者が出ました。被害女児達と特徴も一致しています……犯人は用意周到な奴で、今のところ目撃情報も証拠も掴めていません……唯一の手掛かりである被害者の遺体からも、何も出ていない状況です」

「何も?」

「ええ……何人かの検視官に頼みましたがダメでした。そこで益田先生にお願いしたところ貴女の名前が出たというわけです」

「なるほどな……」

私は呟きながらファイルを開いた。
事件被害者の関連書類と、何百枚という遺体写真が送付されている。
三人ともまだ幼い少女だ。
親御さんの気持ちを察するに胸が引き裂かれる思いだろう。

「写真だけで私に検視しろと?しかも部外者である一般人だぞ……そもそも違法捜査に該当するんじゃないのか?」

「限りなくグレーいやアウトですかね……ですが奏さん……貴女が虻川にしたように、僕も手段を選んでいられないんですよ……」

「物騒な言い草だな、黙ってれば将来警視正も夢じゃないだろうに、自滅するタイプだなあんた……」

「そのお言葉、そっくりそのままお返ししますよ奏さん」

「さっきから気安く名前を呼ぶな……」

「奏さんも気兼ねせず名前で呼んでくれて結構ですよ」

澄ました顔で東雲が微笑んできた。

「やめろ気持ち悪い……適当にビールでも呑んで待ってろ……一応確認だけするだけだからな、このファイル借りるぞ」

「あ、では珈琲頂きます、流石に仕事中ですから」

「ふん、勝手にしろ」

私はそう言い残しテントの中へと入った。
煙草を取り出し口に加え、ジッポで火を灯す。
ゆっくりと吸い込みため息混じりに煙を吐いた。

通常誘拐事件は、発生してから24時間で七十パーセント、四十八時間で五十パーセントとなり、それ以降は極めて低くなる。

事件発生時間は少女が塾からの帰宅時間、昨日の午後六時半から七時の間。
腕時計に目をやる。
現在は午後一時。
事件発生から約十九時間経過している事になる。
ただしあくまでも生存率は目安でしかない。
金銭目的ならまだしも、猥褻目的となると条件も変わってくる。

「時間がないな……」

灰になり掛けた煙草を灰皿で揉み消し、写真に目を通していく。
二人の死因は絞殺。
首元には強く締め付けられたであろう痕が痛々しく残っている。

検視台に寝かされている裸の少女達。
その身体にはあちこちに紫斑が浮き出ている。
恐らく暴行された時にできた痕だろう。

「目の前に死体もないってのにどう検視しろって言うんだよたっく……」

すると。

「うわっ」

テントの外から声が響いた。
慌てて外に飛び出すと、東雲が焚き火台の上で唖然と立ち尽くしていた。

「む、難しいですねこれ」

見ると焚き火台の上にあるクッカーが吹きこぼれていた。

「あのなあ……はあ……こっちのケルトを使え、あとバーナーでやった方がいい、ほら」

「あ、すみません……」

ため息をつき再びテントの中へと戻る。

「たく……これだから素人は……」

煙草を取り出し口に加える。
ジッポを点け揺らめく炎に煙草を添えると、苦々しい味が口の中に広がり、ツンとする刺激が鼻筋に通った。

「長期戦だな……」

私はファイルを手に取り再び写真に目を通した。
黙々と写真に目を通していく。
二枚、五枚、十五枚……灰皿には煙草の吸殻が山済みに重なっていった。
静寂に包まれたテント内、充満した煙草の煙が霧の様に漂っている。

「はあ……」

私は百枚目の写真に目を通したところで、肩を落としたまま立ち上がりテントから出た。
大きく背伸びをし深く息を吸う。
空を見上げると日は沈みかかり、夕映えが禍々しいほどの赤い色で雲を焦がしていた。

「何か分かりましたか……?」

視線を落とすと、珈琲片手にこちらを見る東雲の姿があった。
私は黙ったまま首を横に振ると、空いた椅子に腰掛けた。

「どうぞ……」

東雲がカップに珈琲を注ぎ手渡してきた。

「ありがと……」

珈琲を口に含み、焚き火の炎に目をやる。
妖しく揺らく炎を見つめていると、どこかホッとする。

「奏さん、一つ質問していいですか?」

東雲が不意に質問を投げかけて来た。

「何だ?」

「なぜ……法医学の世界から去ったんですか?」

「なぜ……か」

「はい、確かに貴女は益田さんを利用して偽造書類を作った、けれど結果的に奴を逮捕できた事に、当時の警察庁は特別な処置を儲ける手筈になっていたはずです。益田先生も、あの件に関して寛大な処置をと嘆願していました、何も貴女があそこまでする必要はなかったのでは?道徳観に等とは言わせませんよ、貴女はそんなガラじゃない」

「酷い言われようだな……そうだな……お前、幽霊って信じるか?」

「ぶっ」

驚いた東雲が口に入れた珈琲を吹き出した。

「汚いなあ……」

「し、失敬、予想外過ぎる質問だったもので。ゆ、幽霊ですか?」

「ああ……」

「見た事もありませんからね……もしこの目で確認出来れば信じないわけにもいきませんが……奏さんには視えるんですか?」

「正直に言うと分からない……自分でも確信がもてん……」

「なるほど……冗談で言ってるわけではなさそうですね、もしかして検視官の夢を諦めた理由って、それが原因なのですか?」

私はその質問に答えられず、押し黙ったままカップに口をつけた。

「ふふ、黙秘ですか……でももし僕に幽霊が見えたら、有難いなって思いますけどね」

「おかしな事を言う奴だな……なぜだ?」

「幽霊が犯人を教えてくれるならこれ以上の事はないでしょ、奴らを片っ端から処刑台送りにできる」

「おいおい、仮にも警視庁の役人だろ、そんな事言っていいのか?」

「あ、やっぱり不味いですよね、今のは聞かなかったという事に……」

東雲はそう言うと、両人差し指でバツを作って見せた。

「変な奴だなお前……まあいい、時間もない、続きをやるとするか……」

私が立ち上がると、東雲が思い詰めたような顔で口を開いてきた。

「無茶は承知です、写真だけで何て……ですがもう僕らには他に頼れるものがないんです……お願いします、奏さん……」

そう言うと東雲は深々と頭を下げてきた。

「お前らの為じゃない、被害者とその家族達のためだ……やれる事はやってみるさ……」

とは言ったものの手掛かりはゼロだ。
写真だけでは限界がある。
かといって今の私が公式に遺体とご対面何てわけにはいかないだろう。
どうすればいい……どうしたら……。
顔をしかめながらテントの中へと踏み入る、その時だった。
足が止まった。
いや、固まったと言っていい。
急に背中を氷で撫でられたかのような悪寒が走り、
余りの恐怖に目を塞ぐ事さえできない。

テントの両隅に、青白い肌をした二人の少女が、裸の姿で立っている。
能面の様な無表情な顔、瞬き一つもない。
すくみ上がった私の足はもつれそうになり、入口でよろけてしまった。

「どうしました奏さん?」

東雲が外から声を掛けてきた。

「く、来るな!」

「えっ?で、でも」

「入るな……た、頼む……」

「何か……あったんですね?」

「あ、ああ……」

「なるほど……居るんですね……貴女にしか視えない何かが……分かりました」

ゴクリと喉が鳴った。
見開かれた視界の先、少女達が動き出し、くるりと私に背を向けその場にうつ伏せになった。
痛々しい事件の痕跡と共に、顕になった背中が、私の目の前にさらけ出される。

何だ……何が言いたい……。

私は以前にもこれと同じものを見た事がある。
医学を志した者として、絶対に見てはイケないもの。
非科学的な現象。
妄想や幻覚、精神理念上にしか存在を許されていないもの。あんなものがあっていいはずがない、いや、存在してはならない。

私は遠い過去、アレが見えてしまったせいで、夢を諦めたのだ。
非科学的な現象を認めざる得ない自分に落胆し、科学を信じきれなかった自分に失望したから……。

「あるんだな……伝えたい事が……見つけて欲しいものが……」

腕時計に目をやる。
午後六時。
事件発生から丸一日が経とうとしている。
時間が無い。
私は意を決し少女達の間に入ると、両方の身体を見比べていく。
数々の暴行の痕……。
思わず目を背けたくなる光景に躊躇しそうになるが、私は必死にそれに抗った。

「同じ紫斑があるな……形も似てる……」

紫斑とは、死体が暫く動かされずにいた場合、血液が重力に逆らえず死体の低い位置に沈下し、その色調が皮膚の表面に現れる事でできる痕跡の事だ。
その痕跡が、両方の少女の身体、主に背中の上部に似た様な紫斑が浮かんでいるのだ。

「これは……暴行の痕じゃないのか?」

顔を近付け紫斑をまじまじと見つめる。

「文字じゃないのか……これ?」

普通には読めない、左からではなく右から読んでいく。
微かに読み取れる文字を繋ぎ合わせていくと……。

「F……O……E……最後はRか……?」

FOER……いや、これはL?
両方の身体を見比べ、消えた文字を照らし合わせる。
FLOER……Oの後にも消えかけた文字がある……。
しかも文字を囲むような線の形跡もあった。
互いの紫斑を照らし合わせていく、すると。

FLOWER……か?

「ロゴだ……」

恐らく何かのロゴマーク。
私は慌ててテントの中から飛び出した。

「東雲!」

「奏さん?そんなに慌て、」

「良いから聞け!FLOWERだ!」

「FLOWER?」

「ああ、このFLOWERのロゴマークがある店か何かが被害者の近隣にないか調べろ!」

すると東雲は押し黙ったまま携帯を取り出し通話を始めた。
私はテントに振り返り中へと戻った。
裸の少女達の姿は既に掻き消えていた。
まるで全てを伝え終わったと言わんばかりに……。

私はその場に力なく座り込むと、深いため息を着く。

「待ってろ……お前たちの仇は取ってやる……それと、ありがとう……」

「奏さん」

外から東雲の声が聞こえた。

「被害者三人の住む家の県内に、FLOWERという花屋の個人店が確認されました、店主は独身、未成年に対する猥褻罪で以前にも前科が、」

「報告はいい……捕まえられ、いや、捕まえてくれ、必ず!」

私はそう言って振りかざした拳で、地面を力強く叩いた。

「無論です……今全国のNシステムで奴の車両を特定中です、見つけ次第全警察官を導入して奴を確保し……身を持って裁きを受けてもらう……」

「頼む……少女達の無念を晴らしてくれ……」

「はい……本当にありがとうございました、それと……」

「ん?」

「貴女にとって煩わしい力かもしれない、しかし、それで救われる命も、」

「いいよそれは、早く行ってぶっ飛ばしてこい」

「分かりました、失礼します……」

遠ざかる足音。

「疲れた……」

私はそのままシェラフの上に寝転がると、重たい瞼をそっと閉じた。

その後、益田先生から私に連絡が入った。
話によると犯人は逮捕されたとの事だ。
後部座席には薬で眠らされた少女が拘束された状態で発見され、命に別状はなかったという。
車内には花を詰めるための箱があり、箱にはFLOWERという店のロゴ名が明記されていたらしい。
恐らく死体はそこに詰められ、長時間掛けて運ばれたのだろう。
紫斑はその際にできたというわけだ。

「お見事だったね奏君」

「いえ、益田先生の教えのおかげです」

「ふふ、謙遜しなくていい、君は本当によくやった、東雲君に紹介した甲斐があったよ」

「東雲 辰也……変わった男ですね……」

「ああ、ここだけの話だがね」

「はい?」

「彼の父親は、死刑囚虻川の被害者なんだよ」

「えっ?」

「帰宅途中虻川に拉致されそのままね……」

「し、知らなかった……」

「私が紹介するまでもなく、彼はきっと君を頼るつもりだったと思うよ……」

「そう……ですか」

私は益田先生に礼を伝え通話を切った。

テントに戻り、椅子に腰掛ける。
珈琲を手に取り口に運ぼうとした時だった。

「奏さん」

突然かけられた声に振り返ると、あの時と同じスーツ姿の東雲の姿があった。

「なんで居場所知ってるんだお前は、気持ち悪い……」

「一応こう見えて警察の人間なので」

後ろ手に頭を掻きながら東雲が笑みを浮かべて見せた。

「ストーカーの間違いじゃないのか?」

「酷いなあ……あ、これ」

東雲はそう言うと高級そうなワインを取り出し私に見せてきた。

「ワイン?」

「明日は休みなので、どうです、祝杯といきませんか?」

「そのためにわざわざ……?本当に変わった奴だな……」

「はは、よく言われます、ダメ……ですかね?」

「はあ……さっき燻製作ったんだ……食ってけよ」

「燻製ですか?良いですね、ご相伴にあずかります」

たまにはこういうのもいいだろう。
一人で過ごす夜も良いが、誰かと語らう夜があってもいい。
私はクスリと笑い、燃え盛る焚き火に薪をくべた。

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