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教育はどうあるべきか

いつも読んでくださりありがとうございます♪テストが終わって勢いでたくさんつぶやきを投稿してしまいました。今日は教育はどうあるべきかについてまとめてみました。

個人の能力を引き立てる

個人の能力を引き立てることは重要ですよね。有能な人材を選び抜くのは、国家の重要な役割です。せっかくの有能な人材がそうでない人に埋もれてしまってはもったいないですよね。国家は積極的に人間の選別をするべきなのです。

一般教育と専門教育

まずはこの二つに分けてみましょう。一般教育は全ての学科において必修です。皆さんは小学校や中学校のとき、さまざまな知識を丸暗記させられませんでしたか。でも、その全てが実際に現在に役立っているかと言われればそうではないですよね。一般教育は短縮された本質的なものを包みこむ形にしなければならないのであって、本質的ではないガラクタの寄せ集めではないのです。ここでいう本質的なものとは肉体の健康のために必要な体育や、意志力、決断力などです。これらは現在を進むためのエネルギーであっていくら教養があってもこれが欠けていれば何も出来ず骨董に埋もれ、ただただ人生を終えるという頽廃に陥ってしまいます。専門教育は一般教育を受けたうえで受けるものです。一般教育は義務的なものであるのに対し、専門教育は有能な者の権利なのです。これは個人の自由に任せるべきであり、有能な者なら自分の魂が欲している、つまり自分の能力を引き立てるのは何かをよく洞察し、取捨選択できるという前提で行われます。細かい知識の暗記はその専門教育で初めて必要になるものです。

文系と理系の役割

一般教育は文系つまり人文諸科目にそうべきです。基本的に私たちに何かを語りかけるのは人文諸科目なのですから。国民は一般教育で現代語訳でもよいから古典を読むべきです。また、歴史から学べることは大きいものですから、個々の細かい人物名はよいとして歴史を全体的な大きな流れとして正しくつかむことは重要です。一方、理系の学科というのは受動的な対象物を相手にする学問であるから対象物からこちら側に何かを語りかけるというのはないので、その対象物に自分から接近することで初めて自分たちの生活を豊かにするものです。家の建設に例えてみれば受動的な存在である木を利用して家を建てるという行為、又はその行為を達成するために必要な技術を理系科目だとしたら文系科目、人文諸科目はそもそも木を利用したら家が建てられるという経験的な知識と木をつくって家を建てたいという意志のようなものです。もちろん木を加工する方法を知らなければ家はつくれないため、理系の科目は人文諸科目では得られないものを補っているといえますがそもそもの木を利用したら家が建てられるという経験的な知識と木をつくって家を建てたいという健全な意志がなければ何も始まりませんよね。理系諸科目は人文諸科目によって生まれるものなのです。

物質的時代の特徴

物質的な時代の特徴は理系諸科目は人文諸科目によって生まれるものであるという前提を忘れていることです。これはまったくの根無し草でいくら技術や化学が進歩してもそれらが自分の理想にどういった役割を果たすのか知らなければ意味がありません。物質的時代は自分の理想を育むことを蔑ろにしてしまっているから、技術や化学についての知識をどう利用すればよいかが分からなくなって結局それらの知識に埋もれるだけで終わってしまいます。いくら優秀な頭脳を持ったものでも。こういう時代から脱するためには再びあの前提を思い出す必要があります。

貧富ではなく有能さ

もし、教育の本質が教養の量であれば金持ちが勝つでしょう。よい学歴を積むことができるのは金持ちで、学歴の良さで教養の量は決まるでしょう。しかし、貧しい田舎町から英雄、女傑が生まれないわけがないじゃないですか。貧しくとも、良い学歴を積めるような経済的余裕がなくともその能力が無駄にならないようにしなければならないでしょう。






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