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坂本善三美術館と風土について

私は5年ほど前から気候風土適応住宅の基準づくりに関わっているが、風土ということの意味の本質がよく分かっていなかったように思う。
そのことに気付かされ、教えられるきっかけとなったのが坂本善三美術館だった。

私が坂本善三美術館を訪れたのは今年の9月の初めの頃で、阿蘇への旅行で鍋ヶ滝を訪れた際、偶然に見つけて立ち寄った。
その美術館は、鉾納社という神社の隣にあり、茅葺屋根の古い日本家屋のような外観の本館が印象的で、棟続きの展示棟と収蔵棟が「コ」の字型に配置されており、周囲の森と調和して一体的に佇んでいた。

玄関(エントランスというよりは玄関)から中に入ると、古い大きな民家のお屋敷を訪れたような感覚になった。本館も展示棟も床は畳敷きで、まさに民家のような美術館である。あとで知ったが、実際に本館は地元の方から小国町に寄贈された古い民家を移築して再生されたもののようだった。
玄関の正面には、「形」(1965年 油彩)が展示されていて、観ていると吸い込まれるような、いつまでも見ていられるような不思議な感覚になった。

本館では、少し前まで子供たちのワークショップ行われていたようであった。
展示棟では、地元の中高生による美術部の展示会『おぐに美術部と作る善三展「好きなものを好きっていう」with 森美術館』も開催されていて、来館者も体験し、参加できる仕組みの展示は、思考をアートな世界に切り替えてくれた。

私は、直感的に玄関に展示してあった「形」や展示棟にある「炎」などの坂本善三の作品に心が惹かれた。それは、感情が揺さぶられるような感覚であった。その時は、それが何故だかわからなかったが、「善三先生と私」を読んでみて、その理由が何となくわかったような気がした。(帰り際、「善三先生と私」(著者 坂本寧)と「坂本善三美術館建設物語」(発行者 小国町役場)を買って帰っていた。)

それは、坂本善三の作品が阿蘇や小国の風土に根ざしているからではないかということだ。
そしてその風土は、山や川や空、雲、鬱蒼とした杉の木立、神社といったものは、私が育ってきた地域にも共通し、似たような雰囲気がある。それ故に、より作品に引き込まれたのではないかと思う。

そのことに気づいた上で、改めて坂本善三の作品を見てみたいと思うが、ここでは、そのことに気づかされ考えさせられた「善三先生と私」を読んで感じたことなどを少し記録しておきたい。

「どんよりとした曇り空の下、杉の木立の林立する有様はまさに坂本善三の灰色の世界で、木の葉が一枚落ちても聴覚に大きく鳴り響くような静謐な空間は、精神を清明な世界へと誘い、私は透明人間になってしまって、心だけが木々の間をさまよっているような気分になった。(中略)坂本善三の風土はここにあり、先生の絵画の神秘性は、この中から生まれて来ているのだと理解した。」(「善三先生と私」より)

坂本善三の作品に惹かれたのは、私の無意識の中の感覚が小国の風土と共感したからではないかと、この文章を読んで納得がいった。風土とは、頭で考えるわけではなく、無意識の中に根付いているものなのだろう。それは私が生まれ育ち、住んできた地域の中で感じ目にしたものであり、旅の中で目にしたものかもしれない。或いは、私が生まれる前から連綿と無意識の中に引き継がれているものかもしれない。
風土とは、そういうものなのだろう。

「坂本善三美術館建設物語」には、坂本善三はパリ留学後も日本を捨てず、あくまで日本に根っこを据えて絵に取り組んだと書かれている。そして、違う根っこを持った人たちでも、お互いに根っこを持っているからこそわかるという表現にたどり着くことができ、本来、インターナショナルとはそういうことだと書かれている。

「善三先生と私」や「坂本善三美術館建設物語」には、これ以外にも坂本善三の言葉や様々なエピソードが書かれていて、読む度に様々なことについて考えさせられる。
その一つがここで紹介した風土についてであり、気候風土適応住宅について考えている私にとって、ひとつのテーマを与えられたような感じがしている。

また、坂本善三美術館は、吉田桂二氏の設計によるものだった。吉田桂二氏について知り、学ぶきっかけとなったことも私にとっては大きい。

私は学生時代に木島安史氏が設計した小国町の西里小学校を見に行ったことがあるが、坂本善三美術館への往訪は、私にとって新たな出会いであるとともに、過去の出来事や現在取り組んでいることとも結び付く感慨深い旅となった。

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