二極の合一から見た生きる意味

長年自分は引きこもりをしていた。そのせいか、陰の気質ばかりが育ってきたし陰の資質が齎す
効用を認めつつももう一方の陰の制限に心底うんざりしていた。
数年前から陽の気質が育ち始め、そのまばゆい光に目を奪われ高揚感を覚えたがそれは一時的なものに過ぎなかった。
陽の気質が【自分だけがよければそれでいい(じぶんがよければみんなもよいという思い込み)】や【自分がそう思ったのなら現実(の力のあり方)がどうあれそれでいい】という思想育ててしまう部分があり、それに薄気味悪さを感じてしまう。
どちらがいい悪いという話はできないにしても、改めて一方だけが助長される状況と環境はとても危険に思える。
真実との乖離を生んでしまうからだ。

行き過ぎた陰陽片方の気質は、同じく現実との乖離もひき起こす。陽は欺瞞によって真実から乖離し内面の卑怯さ(陰の質だから)を覆い隠してしまう。陰は不自由感と自らの力に不必要な制限を設けてしまう。
(自由だと信じるのは陽の力だから)
陰は正義誠実、倫理を育て、爬虫類の脱皮のように新しく生まれ変わるプロセスを得意とする。
一方で陽は自由と感性と幼心を育て、真の自己を感じる、見つけるプロセスを得意とする。
どちらも違う極を持ち、人間には欠かせない性質を持っている。

長年陰の極の功利は陽の極の功利に劣るのではないかと考えてきた。しかし自分の中の陽の性質が育つにつれ陰の極が持つ強みが見えてきた。
陰陽という次元に囚われない”最大の自己のフィールドで最善の変化が起こるとき、自分が最も見たくない部分を見ることになる”。
かねがね自分が訴えてきた誠実さと成長凌駕の関連性において、このプロセスは最もといってもいいほど尊い。

自分の最も尊い部分を知ることと、自分の最も醜い部分をまざまざと眺めることは精神世界においては
価値に差はないだろうと思う。
そしてそれらの作業はすべて霊性という大道の道中で行われる。(より霊性の高い知的生命体として変化する道)
決して頭の中に構築された自分が定義するところのアイデンティティがかかわれるものではない。

頭の中に存在する自己イメージが自己の最も尊い部分の観測を土台としている場合はほとんどない。
自己イメージは常に社会的役割やそれから齎される外延の影響である場合が多く、いえば自己イメージは自己の環境イメージと、今日日同一視されている。

役割とその外延に変更が加われば尊さが揺らぐものはあなたの尊さの多寡とは何も関係がないということだ。
有名なサッカー選手がケガにより二度とプレイできなくなった。霊性という大道においてそこからその選手が持つ魂の尊さが発揮されるといえる。レッテルの上から数多の観測バイアスを脱ぎ捨て、本当の自己を見つめる時間が彼にはやってくる。
(本人がそれに意識をさいている場合)
そうして、彼は本当の自己と出会うことができるのだ。

環境はあなたの尊さを引き出し高めてくれることもあるが、尊さを潰してしまう人を引き付けてしまう場合もある。激動しているように見える尊厳は、あくまで表上的なものであり、真相における尊さはそこから何も影響を受けない。

陰と陽の結合合一は、真の自己の尊さへと導いてくれる一つの道になる。
見えていない場所なら人を蹴ってもいいと思わなくなるし、盲目的なエゴイズムで詩を語ることもなくなる。正しさに囚われ返って正当性を失うことにもならないし、すでに起きて凄烈に記録された物事と構築された思想に沿ってその先の人生を生きることもなくなる。(延長性の支配から逃れることは多くの知的生命体が抱える課題の一つであるように思う。)

ある領域では、ストイックなほどの楽観性と徹底的な反芻思考がそれを適えてくれる。
またある領域では、動くべき時に必ず動き、動かないときには必ず静止し(魂肉体精神問わずあらゆるものを)養生する必要があるだろう。
また自分が生涯触れたこともないような馴染みのないある領域では、誰かの助けを必要とすることもあるだろう。

どちらにせよ、陰陽の合一のプロセスのすべては内(なか)から始まり、外を眺めて、さらなるうち側、
つまり魂へ還るようになっている。

それらを始点、作用点、終点とするならば、当人が取り掛かるべき点は始点と終点だけである。
なぜなら作用のすべて自動的だからだ。陰陽の合一を頑張ることはできない。意図することはできても。

想い、動かし、受け取る。という三つのプロセスは、その前の知る、見る、感じるという前段階が
アップデートしてくれる。

自己変容は無知で行うことはできない。知ることこそが、必要になる変容だからだ。

陰陽という二元の対比が齎す効用は別の領域にも伸びている。
男性性と女性性という視点によっても考えてみる。

男性性の得意なことは玉石混交のものを玉と石により分けることだ。
守護や不調和の生まれている結合を分断すること、空洞のものに芯を通すことや炎のように巻き上がることだ。
女性性の得意なことはすべてをすべてのまま包括すること。否定を赦し、委ね、認め、養うこと。
行動の男性性に対して存在することを女性性は象徴する。

陰陽の合一とは男性性と女性性のバランスを整えることでもある。

男性性と女性性のバランスが整えば、人生に巻き起こる不要なトラブルを避けることも容易になってくる。
なぜならば成長の霊域に人生がある場合(自分には大体の人間がそうみえる)、一見トラブルに見える
物事を通して男性性と女性性が成長するように助長させられるからだ。

人生の総体では、足りない部分の穴埋め的な成長は大部分の段階において行われている。

人は何のために生きるのか。思想的、個人的なものを徹底的に排除した、超常的真相的なものの
なかの答えは、高い霊性を帯びているように自分には思える。
スピ業界では、人は学びのために生まれてくるという。しかし自分はそうは思わない。
ある哲人がいった(魂の旅路において)「ここ以外に行くべき場所などない。ここが行くべき場所なのだ」という言葉が自分に想起される。
成長のために生まれてきたのか、学ぶために生まれてきたのか。
否。断じて否である、と哲人は言う。

我々はすでに完璧で、学びを必要とするのは個的な魂の趣味であり、本懐ではない。
地球もそのステージとしてよく活用されるだけで、そのためだけの場所ではないのではないか。
自分はそう思う。

男性性と女性性と合一においては、魂はとてつもない喜びをかんじているのではないだろうか。
それはいけなかった次元の上方向に移動することができるようになるからだ。

たとえるならば炭酸の入ったペットボトルの気泡のようなもので、泡の多くは上へと上昇する。
しかしずっと側面に張り付いたままの気泡もある。すべての気泡が上に向かい全なる空気に合流するわけ
ではないし、それが正しい流れなわけではないはずだ。

しかしもし、炭酸の中でも上のほうに行くことが、”長い目にみて”魂にとって自由であるならば、
学びを目的としてもいいだろう、と思う。

学びは手段でしかないのだ。何のために学ぶのか、その答えが明瞭でなければならないはずだ。
当然”明瞭”には段階が存在する。脳にとっての明瞭、魂(特にその行い)にとっての明瞭、神(の次元の存在がもつ視野とそこからくる好み)にとっての”明瞭”さ。
それぞれが明瞭という言葉で括られるが、その性質とベクトル(願い)はまるで違う。

ただ間違いないのは、不自由(苦しみや絶望や傷心なども同義)を願っていることは絶対にないということだ。
裏を返せば、自由を我々は実現したいのではないだろうか。
霊的学究的学びとは、自由のためにあるのではないのだろうか。

二つの極が正しい形で合一となるとき魂が喜びの振動を増加させるのは、自由という真の自己への成就が叶うからではないだろうか。

余談だが、男性性と女性性が同じレベルで育つと生きるのが容易になることにも触れておきたい。
メンタルも安定する傾向になり、軸が座り、うまいレベルでの自己受容を適えることができる。
二つを育てる手法は人によって違うが、自信を持つことや、運動すること、好適なアファメーションをして”自分のすべて”を受け入れることやもういらない過去の手放しなどがぱっと浮かぶ。
どちらから育ててもいいが、同じレベルになるときっと人生に笑顔が増え、軽やかに生きれるように
なることと思う。

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