『グリーンブック』で描かれていた人種差別と人間の尊厳にもとる正義

映画グリーンブックを見た。おもしろそうだなとサムネを見ていたその翌々日に友人から面白いよと進められるという
奇妙な偶然があった。
物語は天才ピアニストの黒人「ドク」が三か月にわたるミュージックツアーのドライバーを探しており、クラブでマナーの
悪い客を殴って仕事をクビにされた白人「トニー」をドライバーとして抜擢するところから始まる。

あまり映画に詳しいほうではないのだが、ユーモアやアイロニーに富んだ見やすい映画であり、後に残りがちなえぐみのない
ヒューマンドラマであるといえると思う。

しかし大きな出来事の中心やその間に散りばめられた人種差別という思想と文化の描写が非常に生々しく、
人類史の大きな負の遺産のひとつである、『正当だと考えられ不快感から誘発される尊厳の寇掠』は差別に鈍感でいられる
余裕のある我々日本人において、教養という面で本当に重要な映画だった。

非常に印象に残ったセリフを引用する。トニーのセリフから始まる。

「黒人の好物はチキンとコーンミール、それとアブラ菜だろ?」
「それは偏見だ。甚だしい」
「そうか?俺はイタリア系だがイタリア人はみんなミートボウルを食ってパスタがありゃ満足だろ?って言われても気にしないぜ?」
「話が違う・・それは」

遮ってトニーは買ったチキンを勧める。

ドクは重要な反論ができないまま画面が流れていく為、一見トニーの主張に一理あるように思われる。
しかしそれは文化間における理解と文化尊厳の正確な性質への理解が失念されている。
自分が考えられる中でトニーの論舌に対したドクの反論点の構成は、国家文化における尊厳の扱われ方の差が重要である。
そもそも、戦時中のドイツにとってのじゃがいものように、イタリアは戦時下や貧困下において国家規模で安定して生産されてきた小麦から作ることができかつ保存がきき運搬も比較的容易なパスタを国民食として誇りに思っているという背景が
大きい。
今を生きるイタリア人がパスタを愛するのは、先人のイタリア人が貧しく苦しい時、パスタに救われ助けられてきたという
理由がある。
ペペロンチーノはイタリア人主婦の味方である。にんにくと唐辛子とパスタさえあれば遠くから空襲の音が聞こえても、
夫の安否を祈りながら子供たちを食わせることができた。
そしてその事実が国全体として美風として受け入れられ、その美風と国家の尊厳が癒着している点を熟考しなければ
ならない。
黒人は長い航路を描き、歴史の中でたくさんの運搬の記録がある。道具、労働力として売買されたからだ。
ゆえに黒人、という枠組みが形作る尊厳と国家の紐が分断されている。分断されていない場合でも、(人種差別的な思想を持つ)白人からすればアフリカ人とジャマイカ人が並んだ時、その(文化的、思想的、国家背景的な微妙な)
差異が理解できない。
これがアフリカ人という枠組みで話が進んでいたらドクはイラつかなかっただろう。
アフリカという国家と文化の美点と結ばれた偏見ならば、「だいたいのアフリカ人はそうだが、わたしは違う」という淡白な
訂正で話が進んだであろう。
アフリカという国の文化に対する偏見であっても、そこには文化に対するある種のリスペクトが存在する。

トニーはそれほど聡明なキャラクターとしては描かれていない。
しかしこの議論には非常に意味がある。
『我々は国家に住まうのではない、国語に住まうのだ。』
という言葉がある。非常に洞察に富んだ啓蒙的な言葉だと感じている。
(この文脈における)国家は所詮、無数の国民がおぼろげに形作る外殻のことを指しているに過ぎない。
真の国家とはその土地に残る伝統とバイアス、それとそのDNAとミームのことを指す。国語は国文化の最たるものである。

以上のことからわかるのは、我々はあなたと私という分断された相対性の中の個体で存在しているということは幻想じみた
考えである。
我々は団体で存在している。団体における尊厳を自己の尊厳として語り扱うのだ。

自分が特筆したいのは、レイシズムの是非ではない。
トニーがドクにそういったことを言えたのは、トニーが黒人との距離を保ってきたからである。
間に存在した距離が相手への理解の視野を曇らせたのだ。

これはたまたま人種間において巻き起こった思想の変化だったが、親と子、教師と生徒、友人と自分、恋人と自分、
あるいは夫と妻においても。あらゆる人間関係間において遠慮なく、大いに巻き起こる。
他者が実際に自分の尊厳を何処のグループに預けているのか、当人でさえも知ることは滅多にない。
以上の構図に無理解の人間は、一般ではノンデリカシーな人間だとされるだろう。

しかし尊厳の尊重とはそこまでデリケートでナイーブなものなのかと辟易する(あるいは過剰に己を律する)ことはない。
これには至って簡単な、それも小学生にも十分に理解できるよう要所をまとめることができる。
それは「相手をそのまま見つめ、誠実に付き合うこと」だ。
自分の自然な感覚に元ずく主張がもし偏見であることが明らかになった場合、誠実に謝罪すればいいのだ。
その行いは道徳である。そしてそれはいつしかその人の美徳となるだろう。距離のある付き合いで巻き起こる諍いに
無用となる。

一方で、思想とは関係のない人種差別というものも存在する。
物語終盤に登場するレストランの支配人がドクが黒人だからと言って店で食事することを拒否した。
怒ったトニーも「ここで演奏するんだから食事くらいさせろ」と支配人に詰め寄るが、支配人はひとつの重要なセリフを
口にする。

「地域の伝統だからわたくしどもにはどうにも・・・。私個人の主義ではありません。」

このシーンは非常に繊細で複雑な思惑が渦巻いている。
ドクとトニーを阻んでいるのは思想ではない。そこから発生したシステムである。
勘違いされがちなのは支配人は描かれているほど悪質な人間性をしているわけではない。
レストランは地元民に愛されてこそ運営できる。自由趣味ではなくあくまで利益を目指すビジネスなのだ。
そのために客を選ぶ権利は店側にある。それが肌の色であっても。

ここで重要なのは、肌によって是非を決めることの潜在的な忌避感や罪悪感は(肌に関係なく許されざる暴力と犯罪行為に連れ立って巻き起こった感情の偏り、つまり)幻想であることだ。
肌で人を選ぶということは、ジェットコースターに乗るのに低身長が断られることとはわけが違う。
120cm以下が乗れないのは安全面から考慮されたルールだからだ。
バーに未成年が入れないことと同じではない、成長過程の体において飲酒は成人の体よりも危険性があるという
医学的見地に基づいているからだ。
しかし、ドレスコードは?
ドレスコードはどうだろうか。
店が特定の服を着た客を選別するのは、ビジネス上実質的な利益を左右しない。
ぼろぼろの服を着た人間でも同じ皿を頼めば同額の利益を発生させる。
店内の清潔感を失う、という点は考えられる。内装もサービスの一部だからだ。
では店内で服装の傾向によって使う空間が別であればよかったのだろうか?使う廊下が別であれば?

ドレスコードと白人限定というルールの共通項は、容姿である。
そしてその最も大きな差異は後天的選択権の有無にあると思われる。
黒人として生まれた以上、服を着替えるように白人になるわけにはいかない。
選択権がないように思われる。
しかしどうだろう。服は本当に自由に着られるだろうか。
締め付けを嫌う人間はいるし、毎日決まった服を着ないと落ち着かない人もいる。
それらは”当人の自由の範疇”に収まっていると考えられがちである。
日本の天才数学者は交感神経が鈍ると言ってベルトを嫌ったが
これは数学を徹底的に愛してもいいという自由の裏に、しかし、ベルトを利用してはいけないという不自由を
受け入れたことになるのだろうか。
あるいはタキシードやスーツといったクラシカルな服が八十歳のおじいさんがセーラー服を着ているくらい
奇天烈に感じる人がドレスコードを”平等”として受け入れられるだろうか。

感情的精神的生き方がたかがレストランのルールごときで曲げなければならないという苦痛の大きさは
当人にしかわからない。

複数の中からひとつを選択できるという自由は当人の裁量には寄らないケースも存在する。
本当にそこに自由を感じられるかどうかが、真の意味で当人の裁量に寄るのだ。
当人が不自由を感じるのならば不自由である。そのことについてレストラン側が「こういった服が嫌なら隣の店にいってくれ」
というのは権利的な視点から言って横暴じみている。

ドレスコードが許されているのは、”大衆の感覚に照らして適切であり店舗側も有利であるから”だ。
その”大衆”が白人であるなら、白人専用のレストランは是である。
その大衆があるいは黒人ならば、黒人用のレストランが是である。

以上の点から白人専用のレストランで黒人を断るのは、”少なくともドレスコードというルールで客を拒否するシステムが
廃止されない限り”不当ではない。
その隣に黒人用のレストランがあればいいのだから。
近くに黒人用のレストランがないという点はビジネスチャンスである。そのチャンスが大きいのなら、レストランは自然と
建設される。
もし白人用のレストランで出されるチキンがいいというのなら、それはわがままである。
自分だって家の隣に551の店舗ができていてほしい。
しかし一か月と持たずにつぶれてしまうだろうから店舗がないのだ。チャンスはあまりにも小さい。
それは活動範囲の不便さから生じる苦痛であり、人種差別の苦痛ではない。
自分が重要とする店舗がある近くに越さなければならないのは白人黒人関係ないのだから。

重要な補足であるが、ドクとトニーが怒ったのは「ここで演奏する人間として黒人を呼びVIPと持て囃しておいて、
食事は許さない」という点と支配人の態度や言葉端からかもしだされている蔑視の気配が原因である。
これは正当な人種差別の苦痛である。
大いに戦うべき点である。

しかし真に平等な人類の形と経済発展の機会保護は、人類が経済を生み出して以来の難問である。
白人主義の土地柄で黒人にもサービスを提供するという”平等”は、ビジネスマンとして自殺行為でもあるのだ。
問題はもっと前、その土地に白人と黒人の間が分断されたという段階で起こっている。
レストランの客を選ぶ権利と客がサービスを受ける権利の自由を巡った戦いは実際、何も問題ではない。
その分断が国家間で策略的に行われたという点、これが諸悪の根源である。
これが不当の始まりである。

しかし不平等こそ人類の原初の規則でもある。秩序と呼んでもいい。
我々こそが神に愛されている、お姉ちゃんより私の方が褒められた。俺の方があいつと仲がいい。
不平等を我々は望んで創造してきた、誰かより自分が大きいという幻想体験、その甘美なルールを受け入れてから
人類はずっとそのまま複雑な力のバイアスというシーソーに囚われている。
それがたまに暴力となり、それがたまにルールとなる。それがたまに侮辱になり、それがたまに愛になる。

仕方のないことなのだと思う。
全てが平等であるということほど不自然なこともない。不平等こそが自然であり摂理なのだ。
我々の総体、つまり人類の大衆が力のシーソーを望んで降りることはおそらく、人類史が続く限り記録されることはないだろう。(降りるべきかどうかも議論の余地を残すだろう)

全てを曳いて特筆したいのは、我々は気付かないうちに差別を受け入れて時には積極的に差別に加わるということだ。
そしてその差別を目の前にしたときに巻き起こる感情の多くは、植え付けられてきたものであり本来の自己とは何ら
関係がない。
『差別と対極に存在するべき平等は、差別を目の前にしたときに感じる不快感から、最も遠いものである。』

真に平等を掲げようとするのなら、現代世界において常に大衆の敵になること以外ではなし得られない。
しかし真に大衆の敵であり続けるということは、狂気の沙汰である。
平等という甘美な響きにもし惹かれるのなら、己の生において狂気を受け入れなければならない。
正気のまま平等主義を掲げるのならば、平等と書かれた旗の傍に、盲目の旗も掲げなければならない。

そして盲目のままでは、平等は創造しえない。正確には盲目の中で成し得られる平等とは、極めて狭小なものであり
一次的である。一時的である以上、自己満足であり、自己満足である以上、そこに美徳は存在しない。

我々が人種差別のあらゆることを扱うとき、慎重にならなければならない。
人種差別に見られる巨悪は、人種差別という言葉では何も説明できはしないのだから。
そこに宿る巨悪は、人種差別とは縁遠い我々日本人にも、同質のものが見られるのだから。

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